「好き」を語ることは人を幸せにするのか否か

自分にとっての「好き」を語ることは、果たして人を幸せにするのか否か。

この問い、いつも迷う問いだ。

 

逆の立場になって考えてみると、誰かの「好き」を聞いているときは、ぶっちゃけどちらもある。

あぁ、いいなぁ、好きなんだなぁ〜って。ただただ嬉しくなるとき。時には、理由が論理的に理解できなくとも。その人の語っている表情とか熱意に、ただただ魅了されて、幸せになるときがある。

はたまた、そうでない時もある。この人いつまで語り続けるんだろう、って、思っちゃう時が無くはない気がするんだなぁ。冷たいかな。

 

それぞれ、違いが出るのはどういう時なんだろう。どういう要因によって別れるのだろうか。考え得る要因を書き出してみた。

 

・わたしとあなたの関係性

そもそも、「関係性」は大きな要因ではないか。あなたに関心があって、好きだからこそ、あなたの「好き」を聞くのは楽しい。共感ができる。魅力に気がつけて嬉しい。これは要因としてかなりありそうだ。

・「好き」の論理性

マストではないかもしれないが、やはり「なぜ好きなのか」というロジックが理解できた時、より共感力が増す。「確かにそれっていいね!」と、自分も、新しくそのものの魅力に気づかせてもらえる嬉しさがある。こういう場合は、聞いていて楽しい。

・聞いている側の存在認知

「好き」を人に話すとき、それを聞いてくれている人が誰であろうと、どんな表情であろうと、全くもって関心を寄せずにただただ自分の世界に入って「好き」を話し続けているとしたらどうだろう。きっとこれは、聞いている側にとっては心地よくないはずだ。なんせ、この場に自分がいてもいなくても、変わらないような気がするからだ。

・「好き」をシェアする意図

これもマストではないが、「なぜ今あなたにわたしの「好き」をシェアしたいのか」、その理由があるかどうかも一つの要因ではないだろうか。それは、「わたしの好きなものの魅力をあなたにもぜひ感じてもらえたら嬉しい」かもしれないし、「これを好きになることであなたの生活もちょっとよくなるかも」かもしれない。「好き」をシェアする何らかの意図があるかどうかは、聞く側にも伝わり、聞く側の楽しみ方が変わってくるはずだ。

・「好き」の先に込めた、より大きな願い

単に、「ある対象が「好き」である、それ以上に何もない」なのか、それとも「ある対象が「好き」であり、この魅力が多くの人に広まることでこんな未来を目指したい」と、好きであることや、好きを語ることでの未来像があり、それを聞いている側に伝えることができたら、それもより共感の気持ちをうみ、相手を楽しませることに繋がるのではないだろうか。

 

う〜ん。今日ざっと思いつくのは、これくらいだろうか。

他にもあるだろうか、どんな要因が考えられるだろうか。

 

実は、今後ブログで特集したいことがあるのだ。30日間くらいずっと1つのテーマで語り続けたいことがあり、それくらいどうしようもなく「好き」な対象があるのだが、これを自分が楽しいだけではなく人が読んで楽しいと思うにはどうしたらいいのか、悩んでいる。

知人に相談したところ「オタクのように、ただただ語ってみたらいいじゃない」と言ってもらえた。

いいのだろうか。

多分、いいのだろうけれど、何か工夫できることがあるだろうか・・・。

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