直感は、日頃の情報整理から。

昨夜、このブログ企画を共に始めた北村氏とご飯を食べながら話しました。

最近、数日分を溜めてしまうこともある私たちですが、それでも私たちにとってこれまでずっと続けてきた「日々ブログを書き続ける」という積み重ねが、いま、自分の日常や仕事にどのように活きているのかということを改めて確認し合いました。

 

・伝わる言葉を発する機会が増えた

二人で合意したのは、短い言葉に確信を込めて「これだ」という意見を相手へ伝え、それがしっかりと伝わったと実感する機会が増えたのです。

短い言葉に確信を込めて、という部分が、きっと、最終的に相手へ伝わるという結果を生み出しているように思います。

では、確信を込められるような短い言葉を見つけられるようになったのは、どうしてでしょうか。

 

・思考を繰り返し「使える情報」を増やす

やはり、ブログにより自分の意見、思考を小まめに小まめにまとめ続けるという作業をしたからではないかと思うのです。

生活のなかであらゆる刺激や情報を受け取って、きっと今までは、ただただそれを受け取るだけで整理をしていませんでした。

しかし、ブログを始めてから、自分の心により引っかかったものを中心に、自分の言葉でその刺激や情報を整理するようになりました。すると、いままではただの情報として、知っていても使えるものではなかったものが、どんどんど「自分に関連する情報、自分が使える情報」が増えていったような気がします。

その、自分に関連する情報、というのが、あらゆる場面において「自分の意見」として発せられ、それがその場面や相手にとっても重要であるという感覚が強ければ強いほど、その言葉に自信がこもります。

 

・ブログを書くことは、直感を鍛えることかもしれない

この「重要であるという感覚」とは何か。

それを直感というのではないか、と思うのです。

プロ将棋士の羽生氏の「直感力」という本を以前読んだ時に、こんな引用がされていたことを思い出します。カーネギーメロン大学の金出武雄教授がいった言葉です。

「論理的思考の蓄積が、思考スピードを速め、直感を導いてくれる。計算機の言葉で言えば、毎回決まったファンクションが実行されているうちにハードウェア化するようなもの。それまでは毎回発火していた脳のニューロンが、その発火の仕方がいつも同じなのでそこに結合が生まれ、一種の学習が行われたということ」

これが本当だとすると、やはり、私たちがブログを書くことで自分たちなりに思考することで情報を整理し、蓄積し、それによって同じような事象における思考スピードが速まることで、直感が導かれやすくなる、ということが起きていると説明できるのではないかと思います。

 

・情報が多い時代、インプットよりアウトプットを心がける

羽生氏の本には他にも、直感を鍛えるためにはインプットよりもアウトプットが大切だということが書いてありました。

私たちはすぐ前にある、目に見える情報、選択肢、目に見える成果に流されがちです。どんなに情報にたくさん触れても、それがしっかりと自分の中で体系化され必要な場面で選択肢を醸成しなければ、結局はその場その場で目に見えるものに流されて意思決定をしてしまうのです。

だからこそ、ほんとうに自分の意思決定をして生きていきたいと望むのであれば、この情報の多い時代には、いま目に見える情報が思考を占める割合を意図してセーブし、自分の頭の中にある、自分流に体型だった情報を引き出す力をつける必要があると思います。

そのために、数ある方法の1つではあると思いますが、ブログを書くことで日々触れた情報を自分なりに小まめに体系立ててみてアウトプットしていくことはとても有効なことだといえるのではないでしょうか。

そんなこと、実感した昨晩でした。

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私の中の民主主義

民主主義と多様性社会。

「主」である「民」が多様であるということ。

つまり、たくさんの場所に「主」がある、たくさんの「主」を認める、という主義。この意味を考えてみたい。

 

・民主主義ってどういう意味?

現在世界の全部の国が民主主義であるわけではないが、

それがマジョリティとなってきていると仮定したとき、大げさに言えば、

76億人を「主」とする主義が世界の主となってきていると拡大解釈してみるとする。

 

76億も「主」があれば、「主」ってなんだ?という問いが生まれる。

そもそも「主」という概念は、数多くの中から、重要性の強弱をつけるために使われる言葉なのではないだろうか。それが、まるで「全て、最も大事だ」と言っているような、当初の強弱性を持たせる機能を果たしていないような気がしてしまう。

 

民主主義の反対語を考えれば本来の「主」の概念に基づく目的が見えてくる。それが「君主制」「独裁主義」だと仮定するならば、「統治権力」個人の意向に比して「民」の意向に重きを置く、という強弱の示し方をしていることはいうまでもない。

しかし、私としては、この「統治権力」ー「民」の対立概念にはあまりしっくりこないところもある。そうではなく、統治権力を最も有するあなたも「民」であり「主」である、しかし、それは他に同じだけ大切にされるべき意思を持った76億人と同等であり、あなたの意思の重要性は世界において常に76億分の1である、そんな理解の仕方の方がすんなりと受け入れられる。

では、国として何かを決めるとき、76億人の意思を大切にするとは一体どういうことなのか?

 

・絶対解はない

まず、確認すべきことがあると思う。

民主主義的に統治・意思決定をしていく世界において、正解などあるわけないということ。強いていえば、常に国民の数だけ正解があるのだ。

そんな中で、一つの時期に一つの答えが求められたとき、民主主義における至極正当な意思決定の仕方って、何なんだろうか。

少なくとも、ある特定の一つの答えに固執すること、一つの選択肢に固執すること、これだけは最も民主主義として不当なのではないか。

絶対にないものを、絶対にある(絶対にこれだ)と思い続けることほど真実からかけ離れたことはない。

 

・決めることより、移動すること

では、一体何が、正当か。

正当という概念すらないとすれば、民主主義において何が誠実さか。

それは、移動すること、ではないかと思う。

国民の数だけある意思を、移動して移動して、汲み取りに行くこと。すべてと言わずとも、できる限りたくさんの意思に触れに行くため移動すること。その移動には、物理的移動であることは言わずもがな、「精神的移動」も含まれる。

つまり、たくさんの人の考え方を聞くたびに、自分の考えも揺らぐ必要がある。揺らいだ上で常に新しくして行く。同じ結論に至るにも、新たに至る、ということが大切なのだ。

国民の数だけ正解がある中で、誠実な民主主義を実行する統治者の誠実さは、その「移動性」ではかれるのではないだろうか。私はそう思う。

では、民主主義の社会を生き、物事を民主的に決めることに合意する国民一人一人である我々は、その役割を誠実に全うするために、いったいどのようにこの「移動性」を育むことができるだろうか。

 

・私の中の民主主義

私は、それは、まず私が、「私の中の民主主義」を考えることに始まると思う。

どういうことか。

このフレーズは、「私」の中にも複数の「民(人,人格)」いるという「分人」の考え方を前提とする。つまり、一人の人間の中にも、実はたくさんの人、人格が存在しているということだ。

私の中の民主主義を考えるということは、その、自分の中にいる全ての「民」たちを、「主」として考えるということ。つまり、どの人格にも、たとえそれらが互いに矛盾し合っていたとしても、同等に耳を傾けるということだ。自分の中に生まれたいくつもの正解を、いくつもの真実を、しっかりと、移動する。

この移動が「私」という一人の人間の脳内でできたら、その時初めて、自分の外に広がる世界(社会)における民主的な生き方、あらゆる民を主として移動する生き方ができるのではないだろうか。

 

・誠実さは変わりゆく

誠実さ、とは何だろう。その在りようは、いかなる時代も変わらないものなのか、変わるのもなのか。

私は、変わるものだと思う。

私はこれまで生きてきた中で、自分の誠実さを問われる場面が多々あった。それはどれも「私の一貫性」を問われている、要求されているような気持ちにさせられた。一貫していない、一つのことを言い続けていない、一つの人格で在り続けていない自分を、不誠実だと疑われるような場面にたくさん出会った。

もしも、一貫性というものが、これまでの時代における誠実さの代名詞であるのであれば、私は、それは時代によって変わりゆくものではないかと提案したい。

「多様性社会」とうたわれる時代。民主主義の「民」の多様性が最も重視される時代。そんな時代の誠実さとして、一貫性なんてありえない。

複数ある解を、ただ時間の限り、ただ力の限り、移動し、訪れる。そうして訪れたたくさんの意思や常識に影響を受けながら、丁寧に丁寧に、自分の考えを移動させ続ける。たまたま昨日と同じ答えにたどり着いた今日に、新しく感謝する。

そのことが、いまの時代の民主主義を生きる誠実さなのではないだろうか。

真善美、「快」

先週末、学生の頃からよく議論を共にしていた仲間たちと金沢・加賀に行ってきました。

宿は加賀市、北陸三県随一の大きさを誇る山代温泉街というところに泊まりました。

夜3時まで盛り上がった議論の中で一つ興味深かった話を取り上げたいと思います。

 

・真善美のどれでもない何か

真善美とは、それぞれ、人間が持つ知性、意志、感性という機能が追求する最終的な対象のことで、カント哲学の影響で形づくられたことばです。

宿でお酒を飲みながら、そこに集まった人ひとりひとりがそれぞれどんなことを目指しているのかとか、考えているのか、話している中で、こんな興味深い発言がありました。

「世の中に真実は無い。全て個々の人間の勝手な解釈でしかなくて、本当の真実は無い。無いけれども、自分の解釈がどんどんと更新されていく中でより”真実っぽいもの”に近づいていく感覚をただただ求めて、私は生きている。自分の解釈の”真実感”を増していくこと、それがただただ楽しくて、嬉しくて。でも真実なんて無いのにね。無いものに向かっている。アホだよね。でもいいの。それでもこのプロセスに、価値を感じる。」

この発言を真善美の観点から論じるとなんでしょう。「真」に対する絶対なる諦めと、でも擬似的なる”真”を求める姿勢。そのモチベーションは、それが「善」いことだからという理由とも、或いはそれを「美」しいからという理由とも、なんだか少し違う気がしました。

真が否定され、かといって、そのぶんの追求心が善に支えられているわけでも美に支えられているわけでもない・・・別の何かによってモチベートされた、擬似なる真の追求。

いったい、そこにあるものがなんなんだろう? そんな問いが生まれました。

 

・身体性の超越的対象としての「快」

誰かが不意に発した単語、それは「快」という言葉でした。

「人々の追求する究極存在として、真善美だけではなく、なんか「快」に近いものがあるんじゃないかな」

なるほど。確かに、先ほどの発言は、真実は無いとわかっているのに擬似的な真実を求めるのが楽しいというのは、なんというかゲーム(長期的な目標を目指すプロセスというよりはその場その場で生まれる目標を目指すプロセス)としての快楽に近い感覚の生き方と言えるかもしれません。

そのとき私が思い返したことは、それぞれの究極存在を求める機能についてでした。

真は知性、

善は意志、

美は感性、

それなら快は・・・身体性、ではないだろうか。

そう考えてみると、なんだか「快」というものも人間のとても大きな追求対象の一つではないかと感じられてきました。

 

・「快」という原点回帰、その背景

「快」といえば、誰かが、生まれたばかりの赤ちゃんが最初に認識できるものということを聞いたことがあります。快・不快はどの感情よりも先に人間が備えている感覚だと。

ということは、もしかして、この「快」という感覚は人間の原点とも言えるのかな・・・

ここからは私の推測ですが、なんだか「快」という感覚への人間の注目度って、今少し高まってきているのでは無いかと思うのです。それを「身体性」への注目とも言い換えられるのであれば、その統計的正しさのようなものは、その書籍・論文・記事の多さからも証明される気がします。

もしそうだとしたら、なぜ、注目度が高まってきているのか。

それは、こんなロジックで説明できないだろうか。超越存在としての「真」も「善」も「美」も、それぞれにあまりに多様である、ということに気がつくのに十分な情報がシェアされつつある。多様すぎるが故に、人々が向かっていくシンボルとしての効力が薄れてきている。結果的に、”超越存在”とは相反する、最も身近で、最も感覚として確実な「快」という感覚を物事を判断する上での拠り所とする傾向が増えている。

 

・「快」に伴う効果やいかに

どうでしょう?

この議論、どこで終わればいいのかわからなくなってしまったのですが。

真善美と「快」。人々がもしこの「快」の感覚に重きを起きだしたということが言えるのであれば、その先にどのような人間の行動や意思決定の変化、文化の変化、経済の変化が起こるのか。想像してみるのも面白いかもしれません。

その前にもう少し、「快」への原点回帰という現象の妥当性を検証する必要がありそうですが。

最悪の場合、誠実に「ごめんなさい」と言える自信

フローは大失敗を想定し、それでも大丈夫だと思えること、というお話を前回の記事でしました。

実は、アナロジーのレベルでこれと近いなと思う話があります。

仕事やプロジェクトなどで、いかにクリエイティブに、自分の考えや想いをしっかりと表現しきって働けるかどうか、というお話です。

 

・リスクだらけの日本企業

自らの意見やアイデアを表現しようと思ったとき・・・日本企業って、リスクだらけですよね。せっかく会社のためを想って言おうとしても、言えばいうほど損になることが多い。

上司からは扱いづらいと思われ、同僚からは変わった人だと一線を置かれ、その様子を見た周囲もどうしていいかわからずに黙り込んでしまったり・・・結局みんなとの距離ができてしまった、そんな結末に至ることなんて容易に想定できます。

こうしたリスクがある中で、それを無視して「とにかくアイデアを提案すべきだ!」なんて、イノベーションのマインドセットを推進するコンサルの私としてもなかなか軽く口にはできません。

 

・体制を変える以外に個人ができること

では、こうしたリスクに屈服せずにイキイキとアイデアを提案しながら働いていくにはどうしたらいいのでしょうか。

もちろん、体制や制度を変えることによって、一つずつそのリスクを取り除くことを組織を管理する側の人たちに呼びかけるということは必要です。

でも、それだけでは遅かったり、体制を変えるだけではまだまだなくならない文化的・社会的なプレッシャーやリスクというのはどうしても個々人につきまといます。

そんな時、個人ができることはなんでしょうか。それは、「あらゆるリスクをとことんシミュレーションしてみる」ことなのではないかと思うのです。

リスクがあるから辞める、その案を引っ込めるのではなくて、あらゆるリスクを徹底的に頭の中で経験してみるのです。最悪の場合に何が起こるかということを経験するのです。痛さや恥ずかしさ、心地悪さを想定し、その質感や程度をあらかじめ擬似体験するのです。

 

・「ごめんなさい」が言える自信

擬似体験をすることによって、何が良いのか。

それは、大失敗をした時に自分がどうするかという対処方法を先に考えられることです。どの時点まで言ったら「ヤバい」のか、ヤバい状況になった時の逃げ道・打ち手がなんなのか、それをしっかりとあらかじめ決められるということです。

具体的には、例えば最悪の場合自分が完全に他人に悪影響だけを及ぼしてしまったという時に、それでも何の打ち手もなくなった時に、自分の最も誠実な心を込めて「ごめんなさい」と謝罪・償いができるかどうか、など。この最悪の場合に自分がする行動のイメージを掴めた人って、きっと、緊張感はあれどある程度の安心感と自信を持って、挑戦ができるのではないかと思います。

パルクールの話のアナロジーでまとめると、「大失敗を想定・練習し、大丈夫だと思える状態」を作っておけば、人は思い切りフロー状態で挑戦することができるのです。

 

これはぜひ、ぜひ、リスクだらけの企業内でそれでも「挑戦」をしたいみなさんにオススメしたいです。最悪の事態が起きた時、腹をくくって謝罪と償いができるか。そういう体内イメージがあるかどうか。これがきっと、みなさんをフロー状態にすると思うのです。ぜひ、あらゆる大失敗の想定と対処の練習、してみてください。

大失敗を練習すればフローは起こせる

「パルクール」というスポーツを知っていますか?

ビルの壁や階段の手すりなど、街中にあるようなものを利用して走ったり跳んだり、登ったり降りたりする、いわゆる「エクストリームスポーツ」の一種です。手すりの上をスケボーで滑ったりするようなシーンが、皆さん一番想像がつきやすいでしょうか。

この、パルクールの選手のあるインタビューの話を聞きました。

 

・Flow or Die

エクストリームスポーツのアスリート達にとって、「Flow or Die」と言われている概念があります。これは日本語にすれば、フロー状態に入るか、さもなくば(危険すぎて)死んでしまうか、ということです。

つまり、フローに入らなければ不可能なスポーツや体のうごかしかたということです。

ですから、フロー状態の研究においてエクストリームスポーツのプレイヤーは研究対象として選ばれることが多くあります。

 

・意図的にフローに入る

彼らは、競技に向けて自ら意図的にフロー状態に入ることができるのです。(直観力と体の反応が極限まで冴えていなければ、死の危険がありますからね)

実際に、とあるパルクールの選手のインタビューでも、「競技前にグッと自分をフロー状態にする」と話していたそうです。

では、彼らはどうやってこんなに危険すぎる競技を前に、フローに入れるようにするんでしょう・・・そのヒントとなるような、面白い回答を聞いたのでご紹介します。

 

・最悪の失敗を想定する

パルクールの練習って、どういう風にしているとみなさん思いますか?

実は、例えば手すりをスケボーで降りたりそこから飛び移ったりする時に、「あらゆる失敗を練習する」らしいんですよ。飛ぶ時にこれくらずれてしまった時にはどうリカバリーしよう、と。

特別な練習器具を作り、落ちられるように横にマットをたくさん置いて、とにかく想定できる限りのあらゆる失敗を実践するそうです。そして、その失敗が起きたときに、どう修正をするか、或いは、最悪自分の身を守るためにどのように受け身をとるか。これを、徹底的に練習する。

そして彼は言ったそうです。「それを重ねておけば、本番には、全ての地面がふわふわのマットに見えるんですよ」と。

つまり、落ちても大丈夫、失敗しても大丈夫、そういう安心感のもとで思いっきり競技に集中できるそうです。

 

・フローは危機感と安心感のバランスを作ること

この選手のお話を聞いたのは、すごく有意義でした。

もともとフロー状態というものは「危機感」と「安心感」のバランスがとても大切なのですが、ではどうすればそれを保つことができるのか?という問いに対し、一つ具体的な答えになると思ったからです。

大きな危機感の伴うことに挑戦するのだけれど、そのあらゆる失敗に対して練習し、体を慣れさせ、最悪のリスクが発生したとしても「大丈夫」と思える安心感(ふわふわのマット・・・)を作り出すことで、ちょうどいいバランスを実現することができるんですね。

これは皆さんも、すぐにできそうなことではないでしょうか?

 

まず恋に落ち、次に学び、それから初めてGiveをする

Give & Take、とはよく言われる人付き合いにおける大切な考え方ですね。

今日はそこに一つ、新たな概念を足してみたいと思います。

「Receive」、受け取るということ。

 

・コンサルティングあるあるの「強引Give」

そもそも、このことを強く認識した背景をお話ししたいと思います。

コンサルティングあるある、というと少し皮肉混じりになりますが。私には、嫌いなコンサルティングのスタンスがあります。それは、「いかに相手企業を変えてやるか」「いかなるソリューションをもたらし、納得させるか」みたいな強引なGiveのスタンスです。

このスタンスに特徴されるのは、①仮説を早く立てる ②強い口調でソリューションを語る。自らの知見と自らが持つリソースを最も信頼する傾向にあり、相手のもつリソースや、その成長可能性に耳を傾けていないことがあります。

確かに「Give」の精神がめちゃくちゃ強く込められているとはいえ、私はこのスタンスが嫌いです。それは、あまりにGiveの思考が先行しすぎて、相手がほんとうに何を望んでいるか、相手のほんとうの魅力が何か、相手の成長可能性がどこか、そのほんとうのところを、掴めていないことが多いからです。

 

・まず「Receive」しませんか?

上に書いたようなコンサルティングのやり方をした際の最大の欠点って何でしょう。

それは、コンサル側が「Give」をすればするほど、それが次第に「あなたは何も持っていない」というメッセージになってしまうことが往往にしてあることです。相手や相手の会社の状態を良くするつもりが、相手の自信を奪って帰ることになってしまいます。

それは、お互いが望むことではないと思うんです。それなのにどうしても、コンサルタントになると良く「お客さんになめられないように」「説得力を出すために」と、ご自身の見た目や話し方を気にされたりする方がいらっしゃいますが、あなたが何をGiveできるかということをピカピカに見せることよりも、相手とのパートナーシップを築くときに大切なことがあると思うんです。

それが、「Receive」受け取ることではないかと思います。自分がピカピカするよりも、相手のピカピカを見つけることを先にやる。自分を見てもらうのではなく、相手を相手以上に見る。見て、相手の抱えているほんとうの声と、そして相手の美しさに気がつき、心動かされるほどにしっかりと受け取ることです。

 

・まず恋に落ち、次に学び、それから初めてGiveをする

そんなふうに考えた結果、私の中でコンサルティングとはこういうステップを踏むと良いのではないかという自己流が生まれました。

それは、

1 まず、恋に落ちてしまうほどの相手の(相手企業の)魅力を実感する

2 彼らがいかなる方法でその魅力(財産)を歴史の中で守り続けてきたのかを学ぶ

3 こちらが貢献できることを惜しみなくGiveする

という3本立て。

1と2を強調するなれば、コンサルタントって、クライアントに恋に落ちてなんぼ、クライアントから学んでなんぼなのではないか!と思うのです。

世の中に賢いソリューションやフレームワークがたくさんある中で、いいコンサルタントとそうでない人を分けるのは、この見落とされがちな「Receive」の力にかかっているのではないでしょうか?

「無い」より「欲しい」と言えるように

自分がこうして思考の整理をするのは何故なのか、よく考えます。

自分が学問を探求し続けたいと思うのも、アイデア発想やシステム思考のワークショップに行き続けるのも、この企画を一緒にはじめた北村くんと毎週朝会をするのも。

「なぜ、考えるんだろう?なぜ、学ぶのだろう?」

 

・言葉で繋がりたい

一番の気持ちは、人と言葉で繋がりたい、という自分のニーズではないかと感じます。

日々のいろんな場面を振り返って、自分が最も嬉しいと感じる時と最も残念に感じる時をピックアップしてみると、いかに「相手と言葉で繋がれたか」ということが大きくそれを左右している要因であることに気がつきます。

繋がれたかどうか、というのは、その言葉が互いの気持ちを繋げる上で最も適切であったかどうか、ということです。互いの理解を繋げる、認識を繋げる、愛を繋げる、悲しみを繋げる、哲学を繋げる・・・たくさんありますが、人と時間を一緒に過ごしている以上、相手の中にあるものと自分の中にあるものを何らかの形で繋ぐ言葉を交わしていたいと思うのです。

しかもそれを、より愛を感じられるやり方で、繋ぎたい。

 

・「無い」より「欲しい」の方が繋がれる

「適切な言葉」と言いましたが、具体的にどういうことでしょう。

私たちは、自覚的にも無自覚的にも、何かを望みながらあらゆる場面を過ごしていると思います。望んでいるからこそ、それが得られたら嬉しい・心地よいと思うし、それが得られてない時にはどこか居心地が悪いと感じます。

そんな時、私たちが最も得意なのは「無いもの」を口にすることです。

望んでいるものは見えにくくても、無いものってすごくわかりやすい。だから、すぐにあれが無い、これが無いと言葉にしてしまいます。でも、その言葉は往往にして「人と人とが繋がる」ことに寄与していないことがあります。誰かを責めてしまったり、悲しい気持ちにさせてしまったり・・・繋がりよりも、距離を作ってしまうことがあります。

そんな事があると、私は後から振り返って、あぁ、もっと「適切な」言葉があっただろうにと反省します。それは、「無い」ことの主張ではなくて、「欲しいもの」を伝えるということです。

こんな風にしたらどうだろう、こんなものがあったらどうだろう、そう伝えた上で、相手が欲しいものが何かということにも耳を傾けます。こんな風に相手との間に言葉を使えたらな・・・と、よく思うのです。

 

・毎晩振り返っては、「欲しい」を言葉に。

では、どうすればとっさの瞬間に自分の口から「無い」ではなく「欲しい」と言えるのでしょうか。

それは、日頃から、自分が何を望んでいる人間なのか、どんな状態をいいと思うのか、「「欲しい」を言葉にする」ことを訓練することなのではないかと思うのです。日々の生活であらゆる快・不快の場面に出会ったその夜に、その場面を具体的に振り返るのです。あそこで快を感じたのは何があったからか、逆に不快を感じたのは何を求めていたからなのか。徹底的に振り返り、言葉にするのです。私は「これが欲しい」のだ、と。

この日頃のトレーニングが、もしかしたら明日、自分や誰かが不快を感じたときに、「これが欲しいよね」という建設的で愛のある言葉のやり取りに繋がるのではないかと思うのです。

 

・言葉のタイムリミットに間に合うように

「言葉」にはいつも、タイムリミットがあるのではないかと考えています。

いまじゃなくてはいけない、というある程度のリミット。そのタイムリミットの中にちゃんと、適切な言葉を納めたい。

その想いが、こうして日々自分の考えや望みをまとめ、あらゆる学問や他の人の言葉遣いに触れながら、言葉を紡ぎ出す練習をすることに繋がっているのではないかと感じます。