【今日から知るマンデラ:第7話】愛する妻子の夜逃げで考える「自分は何を選択し、何を諦めるのか」

田舎者出身マンデラの「鈍重で泥臭い」*1 思考に次々と刺激を与えていったヨハネスブルグでの「出会い」が、マンデラを解放闘争のアクティビストへと目覚めさせました(第6話)。

今日は、マンデラが闘争活動に励んでいくと同時に失っていってしまうプライベートや家庭生活のお話です。今日のお話から導き出される正解のない「問い」は、「一般の多くの人たちが大切にしたいと思う現在の生活とは違った、何か、より不確実で、より革新的な大きな理想へ向けて自分の命を使うと決めた人」たちが、いつでも自覚的に持っている問いであってほしいという気持ちを込めて、お届けします。

 

***

 

マンデラが闘争へ加わってから、当時の指導者達にその随一のカリスマ性を見出されるまでに、そう時間はかかりませんでした。シスルやガウルなど、反アパルトヘイト闘争を行う非合法の政党African National Congress(以下、ANC)の “ブレイン” であった人物達が、「彼こそが先頭に立つべき器だ」とマンデラを前に押し出して支え、瞬く間に、マンデラは自身が闘争を指導する立場へと歩みを進めていきました。

ANCの幹部たちが「カリスマ」と認める所以となった、当時のマンデラの特徴とはなんでしょう。振り返って彼らが言うのは「感情的で短気、根拠もないくせに自信があるように振る舞うヤツ」と、あれ、これって本当にいいところ?(笑)というようなコメントが多いのです。しかし、マンデラのその「裏表や嘘がなく、とことん正直でまっすぐなところ」が、何よりも、誰よりも、有望な指導者として際立った素質だったといいます。

 

さて、そんなマンデラに、永遠のメンター ウォルター・シスルが与えたのは、闘争の指導者としてのポジションだけではありませんでした。エヴリン・マセという、マンデラが最初に結婚した奥さんも、シスルの従姉妹の一人でした。非白人専用の病院で当時看護師をしており、「地方出身の大人しく愛らしい女性」*1でありながらも、真の強さを持ったマンデラ好みの女性でした。

初めて会ってから急速に惹かれたマンデラは、なんと数ヶ月のうちにプロポーズ!当時すでにANCの活動と仕事の両立で忙しかったマンデラは、婚姻届に署名をしただけで、結婚式を開く余裕はありませんでした。最初は住む家もなく、エヴリンのお兄さんの家に転がり込んで暮らしていましたが、後にようやく、いまのソウェト(ヨハネスブルグ近郊の大きな黒人居住区)の一角に家を持つことができます。電気も水もままならず、寝室もキッチンも狭く不便ではありながらも初めて手にした「我が家」に、マンデラはとても誇らしい気持ちになったそうです。

 

次第にマンデラの活動は勢いを増し、毎日のように開かれる集会では大勢のANCサポーターの前で演説をする役割を担うようになっていました。この頃のマンデラの演説スタイルについて、マンデラ自身が「躍動家のようなところが多分にあった」*1と振り返ります。「しゃべっているうちに、自分の中で憤りがどんどんふくらんで」*1、そうした怒りをあらわにすることで「聴衆をあおるのが好き」*1だったといいます。こうした表現と、この頃のマンデラの闘争心に満ちた写真の表情を見るだけでも、その様子が伝わってきますね。

しばらく「非暴力不服従」を主義として活動を続けてきたANCのメンバーの中に、このままでは一向に白人と対等な交渉の立場に立てないのではないかと思い始める面々が出てきました。そこで、「非暴力とは主義であるか、手段であるか」の議論が行われるようになります。もちろん幹部/メンバー内で賛否が割れ、そして結論のはっきり出ないまま・・・・ある日のANCの大きな演説にて、マンデラが “勝手に” 武力闘争宣言をしてしまうのです。沸き立った群衆の拍手喝采に応えるように、ステージの上のマンデラは解放闘争の歌を歌い始め、四隅で警戒する白人警官たちを指差して「そこに敵がいる。武器を手に取り、攻めかかろう!」*1と群衆の闘争心を一気に引き出し、その気にさせてしまったのでした。(マンデラ曰く、これは突発的な行動ではなく、「ずっと考えていた上でのこと」*1ではあったようですが。)

いくらカリスマで、率直かつ公明正大なリーダーとはいえ、この(周囲からすれば)なんとも感情的で身勝手な行動が、いかに他のANC幹部や先代の指導者たちの困惑と怒りを巻き起こし、その後のANC内部に大変な騒ぎをもたらしたかは・・・皆さんのご想像にお任せしたいと思います。

 

マンデラの言動・行動が大きな困惑を巻き起こしていたのは、ANC内だけではありませんでした。そうです、マンデラと結婚をした妻のエヴリンと、その間にもうけられた5歳になる息子テンビとの家庭生活にも、確かにほころびが見え始めていたのです。過酷なスケジュールで、休む暇もなくANCに打ち込んでいたマンデラは、毎晩遅くに帰り、朝は早朝に出て行きました。そんなお父さんの姿を目にすることがほとんどなかったテンビは「お父さんは、どこに住んでいるの?」*1とお母さんに聞いたそうです。

妻のエヴリンはもともと、マンデラにとって政治は「ちょっとした回り道」*1だと考えており、いずれ田舎に帰って弁護士をしてくれることを望んでいました。これに対してマンデラはなんどもエヴリンと議論をし、「政治は回り道ではなく一生涯の出来事出会って、私という人間の本質的で基本的な部分なのだ」*1と説明を試みたが、それが永遠に伝わることはなかったといいます。宗教を重んじるエヴリンとそうでないマンデラとで、子供の教育方針でも大きく意見が食い違いました。

ある日、ついにその日はやってきました。マンデラがいつものように集会から夜遅くに帰り、家に入ると、そこにあったはずのキッチン道具や家具がなくなり、もぬけの殻・・・エヴリンは息子テンビとマハト、マカジェの三人を連れて、マンデラが帰らぬ間に夜逃げをしたのでした。

 

マンデラは、二人の間にはどうしても「超えられない溝」*1があったと振り返ります。マンデラ自身は「闘争に生きる暮らしを捨てることができなかった」*1し、エヴリンの方は、夫が自分や家族以外のものに打ち込むのをこれ以上我慢することができなかったのです。

 

***

 

両親の離婚後、最も影響を受けたのは、ちょうど10歳になった息子のテンビでした。以前は英語やシェイクスピアに熱中していたテンビが、学ぶことに興味を示さなくなり、勉強をせずに引きこもりになってしまったといいます。テンビはそれからよく、ぶかぶかのお父さん(マンデラ)の服を着るようになったそうです。「まだまだ大きいその服を着ることで、身近にいることが少ない父親とわずかな繋がりを持とうとしたのだろう」。マンデラはこの一文を持って、自身の自伝にある「離別」の章を締めくくりました。

 

私たちは、このお話からいったい何を読み取ればいいのでしょうか。時に何か一つの大きなものに命を注ぐと決めた時に、必然的に、他の何か、しかもそれは普通の生活を送っている人が何にも増して大切にしているものを、失ってしまうということはどうしても避けられないということなのでしょうか。

ちょっとこの問いばかりは私も解釈の立場をとりきれません。しかし、少なくともマンデラの生活において、こうした結末はこれが最初で最後ではありませんでした。「国」というより大きな集団を「自分の家族」として命を捧げることを決めたために、小さな単位での「自分の家族」についてたくさんの犠牲や、別れを余儀無くされることがこの後もたくさん起こります。

 

「何かのために命をかけるということは、何か大きなものを必然的に失うことである」と、言い切れる根拠はありません。ですが、その可能性が常にあるということを自覚し、常に「自分は何を選択し、何を諦めるのか」ということに対し、自分自身が主導権を握り続けることが何よりも大切であることを、この後のマンデラの人生も示してくれているのではないか・・・・との短い考察をもって、今日のお話を終えます。

皆さんの中で、この問いと、少しのモヤモヤ感が、継続していくことを願って。

*1… “Long Walk To Freedom(Nelson Mandela’s Autobiography)” -Nelson Mandela

 

>>第8話へ


2017/8/13〜9/11の30日間、【今日から知るマンデラ】特集中!

誰もが一度は歴史の教科書でその名前に触れている・・・南アフリカ共和国でアパルトヘイトを廃止した自由の闘士、黒人初の大統領となった「ネルソン・マンデラ」。「聞いたことあるような・・・」「でも、誰だっけ?」というあなたも、今日この日からちょっぴり詳しくなれる、と思ったらちょっぴり好奇心が湧く、と思ったらあれれ、気付けば30話全部読んでしまっていた・・・・と、そんな機会をお届けすべく30日間、マンデラマニアのわたくしセラユミが楽しくお届けいたします。30のお品書き(随時更新)は、初回ブログにてご確認あれ。

【今日から知るマンデラ:第6話】ロマンチストをアクティビストへ変えた「出会い」

育て親の元を逃げ出し、何もないところから始めた、いささか情けないヨハネ生活が始まりました(第5話)。

今日は、こうして”純粋な恋愛”を求めて夜逃げしたマンデラが、その頃はまだ学位を取って弁護士になり、いずれは摂政のように、コミュニティの優れた指導者になるという「正統派のロマンチスト」から、古い法律そのものに不満を抱き、国の政治に物申す立場としての「改革派のアクティビスト」になるまでの経緯についてお話しします。

「ロマンスには恵まれなかったものの、わたしはしだいに街での生活に慣れ、自分の内面的な強さへの信頼感を、生まれ育った世界の外でもじゅうぶんにやっていけるという自信を、胸にふくらませ始めた。」*1 と振り返るマンデラが、ヨハネスブルクで自分自身への信頼感を強めたり、世界観を広めていくに当たっていったいどのような出来事があったのでしょうか。

今日は「これまでに自分が考えていたこととは全く違う考えを自分に話してくれる人に出会いつつあり、これまでの思考が崩れ始め、少し頭の中の混乱が始まっている」ような人にぜひ読んでいただきたいお話です。

 

***

 

ヨハネスブルグでは様々な仕事を試しては、1日の食事をパン1つで繋ぐような非常に貧しい生活をしていたマンデラ。ある時、ヨハネスブルグに住んでいた親戚の一人に相談したところ、ある不動産会社を経営する「最高の同胞のひとり」を紹介してやると言われ、ついて行きました。そこで出会った、マンデラよりわずかばかり歳が上のスーツを着た黒人男性は、「知的で温和な顔だち、茶色に近い肌をして、若さに似合わず、社会経験をたっぷり積んだような風格を漂わせていた」*1というのが最初のマンデラの印象でした。彼こそが、この後約50年間以上もマンデラの良き親友、メンター、そして戦友として共に反アパルトヘイト闘争の指揮をしたウォルター・シスルなのでした。(ちなみに、つい最近まで日本にある南ア大使館で大使をしていたペコ大使という女性はなんとシスルのお孫さんでした^^)

シスルの好意によって、マンデラはあるリベラルなユダヤ系白人の経営する法律事務所で雑務をさせてもらえることになりました。この事務所で出会った人たちがまた、マンデラの世界観、考え方を大きく揺さぶったり覆したりするような刺激を与えました。まず、事務所を経営していたユダヤ人のサイデルスキーは人種に対する偏見を全く持たず、この国でアフリカ人(黒人)が自由になるためには「教育を受け、抑圧されないよう考える能力が必要だ」と考えおり、マンデラが一流の弁護士になることをもって他のアフリカ人にそのことを体現して示すことを強く諭しました。

一方で、サイデルスキーの事務所で働く社員の中でマンデラの他にいた唯一の黒人、ガウルの考え方や振る舞いはマンデラにさらに劇的な思考の変化をもたらしました。事務所の白人秘書の女性からは「ネルソン、この法律事務所には、人種の壁はないのよ」と言われながらも、皆が共同で使っているお茶のコップとは別に「ネルソンとガウル用に」と言って新しいマグカップを二つ用意されることそのものが、マンデラにとっては、存在しないはずの人種の壁そのものに思えました。こうした壁について気がついてないわけではなかったガウルだが、ガウルはこうした場面において、自分とマンデラ用に用意された新しいマグカップをあからさまに無視して他の白人社員と同じコップにお茶を入れ、砂糖やミルクなどを贅沢にたくさん入れてかき混ぜる、「独立独歩」の人でした。人にへつらうことなく、白人であろうが雇い主のサイデルスキーであろうが、広い知識と自信に満ちた論理展開をもって相手をたしなめるような場面がよく見られたといいます。ガウルの姿は、マンデラにとって衝撃そのものでした。

ガウルは大学を出ていない、シスルも大学を出ていない。それでも、どの知識をとっても全ての面においてマンデラの知識に優りました。いい大学を出ることでしかいい指導者になれないと信じきっていたマンデラの古い考え方が「鈍重で泥臭いもの」*1に思えたといいます。

サイデルスキーの事務所には、ナットという、マンデラが入る直前に入社したばかりの、同年配の白人がいました。彼もまた人種意識が全くなく、マンデラにとって初めての白人の友達になりました。ある日ナットがサンドイッチを買ってきて、マンデラに半分分け与えたその瞬間に「ネルソン、我々が今やったことは、共産党の思想を象徴してるんだ。」と、共産党の基本原理とその良さを休憩時間のたびに語るようになり、当時信仰心が強かったマンデラは宗教を嫌う共産党とは反りが合わなかったものの、考え方を広げるきっかけとなりました。南アフリカ国内の闘争は純粋に「人種的」なものだと考えるマンデラに対し、共産党は「持てる者が持たざる者を抑圧している」という構図を持つ「階級闘争」として捉えていました。

賛成する思想や理論やそうではないものも含め、こうしてたくさんの都会の実践者/有識者との出会いを通じて、田舎くさくて凝り固まった視野の狭い考え方を、マンデラは徐々に徐々に揉んでいき、改めていきました。最初の頃は「高尚でテンポの速い会話に加わる度胸もなく」、ガウルやシスルに着いて政治会合に行っても参加者ではなく傍観者として留まり続けたマンデラでしたが、ある時、その立場を変える出来事がありました。

「一流の弁護士になりたければ、政治には首を突っ込むな」と、当時盛んに政治活動を自ら指導していたガウルとの接触を咎めるサイデルスキーの努力もむなしく、マンデラは日に日にガウルに近づき、時間さえあれば彼の考え方に触れようとするようになりました。そしてある日、ガウルに連れられ、バス料金が4ポンドから5ポンドに値上げされたことに抗議するバス・ボイコットのデモに参加します。そのリーダーとして運動を率いるガウルの勇姿を間近に見たこと、そして何よりも、9日間の完全ボイコットに屈したバス会社が実際に賃金を5ドルから4ドルに戻したという成果を目の当たりにしたことが、マンデラにいよいよ大きな影響を与えました。ヨハネスブルグという都会に来て、大学で学んだ知識や理論とは全く違った、社会に実際に変化を作り出すための実践的な知識ややり方に出会ってしまったのです。

弁護士になるために必要な学士試験をヨハネの大学で受け直し、何度も落とされながらようやく合格を果たしたマンデラは、学位授与式を受けるために再度フォートヘア大学へ戻り、その後故郷トランスカイの家にも戻りました。この時、マンデラは、これまでそこで暮らし、教育を受けていた自分が進むべきだった道とは「別の道へ足を踏み入れつつあること」*1を心の内に悟ったといいます。「ガウルやシスルとの付き合いを通して、自分は特定の地域や地方だけに対してではなく、同胞(黒人)全体に対して義務を負うべきではないかと思い始めていた」*1のでした。

 

***

 

シスル、サイデルスキー、ガウル、ナット、そして彼らに連れられて出向いた先で出会ったたくさんの、マンデラにとっての常識を覆していった人々。こうした人々の意見一つ一つに、賛成するときも反対するときも、マンデラは注意深く耳を傾け、長い間傍観者でいながらも、最終的に自分がどの方向に歩を進めていくべきか吟味を重ねたそうです。

しかし考えに考えた末、最終的には「人生の流れが全て、わたしをトランスカイから運び出して、中心とおぼしき場所へ、つまり、民族共通の大目標が地域や部族への忠誠心を飲み込んでしまうような場所へ、導いているようだった」*1と、”反アパルトヘイト闘争”へと自分の歩の方向性を定めることを確かに正当化するような直感を抱いていることがわかります。

世の中から知られる自由の闘士(最終的には自由の象徴)となる「ネルソン・マンデラ」は、まさにこの瞬間から生まれることになるのです。誕生の理由は他でもなく、自分の世界観を広げ、「物事をありのままに見る」目を養ってくれた “新しい出会い” によってでした。

もしも、皆さんの周りで、自分がこれまでに信じて来たことを全くもって覆すようなことを言っている人たちに出会うことがもしあったら、少し注意深く、その機会がいま自分に何を示唆しているのだろうか、ということに耳を傾けてみるといいかもしれませんね。もしかしたら、この出会いが何か、皆さんの人生の舵を大きくきり、皆さんの使命が最もこの世界に全うされる道へと導いてくれるターニングポイントであるかもしれませんよね。

*1… “Long Walk To Freedom(Nelson Mandela’s Autobiography)” -Nelson Mandela

 

>>第7話


2017/8/13〜9/11の30日間、【今日から知るマンデラ】特集中!

誰もが一度は歴史の教科書でその名前に触れている・・・南アフリカ共和国でアパルトヘイトを廃止した自由の闘士、黒人初の大統領となった「ネルソン・マンデラ」。「聞いたことあるような・・・」「でも、誰だっけ?」というあなたも、今日この日からちょっぴり詳しくなれる、と思ったらちょっぴり好奇心が湧く、と思ったらあれれ、気付けば30話全部読んでしまっていた・・・・と、そんな機会をお届けすべく30日間、マンデラマニアのわたくしセラユミが楽しくお届けいたします。30のお品書き(随時更新)は、初回ブログにてご確認あれ。

【今日から知るマンデラ:第5話】教育が与えた逃走の選択と、切り開いた情けない日々

テンブ王本家ジョンキンタバの支援を受けて入学したフォートヘア大学を二年間で中退し、ムケケズウェニに帰ってこのことを告げたマンデラは、「愚か者」としてひどく怒られました(第4話)。その後、マンデラはお世話になった育ての親族に挽回を見せるどころか、さらに彼らの恩を裏切ることになります。

今日のお話は、「想いのままに飛び出しては見たものの、理想と現実の差に圧倒されながらちょっと冴えない毎日を送っているかもしれない」と不安を感じている人たちがいたら是非読んでもらえたら嬉しいです。

 

***

 

今でこそマンデラは「自由への闘争士」になるために生まれてきたような人ではないかと思われがちですが、それなりに名誉な将来の約束された”田舎のボンボン”から、南アの政治・社会の中心で闘う”都会のナショナリスト”へと転身するきっかけは、ある、ひょんなことでした。

マンデラがムケケズウェニに戻ってから間も無く、ジョンキンタバが、息子のジャスティスとマンデラとにそれぞれ結婚相手を連れてきたのです。テンブ王族にとって当時、親が子供の結婚相手を決めるのはごく当たり前のことでした。もしも、マンデラたちが外の世界を知らなければ、何も疑問に思うことなくこの慣習に従っていたことでしょう。

しかしながら、ジャスティスもマンデラも、ジャスティスが用意してくれた良質な教育環境のもと育ったため、あらゆる世界の実情や歴史、古典的な物語における教養がありました。全寮制の高校やフォートヘア大学ではジェーン・オースティンやシェイクスピアの詩を読み、マンデラが幼少期から見てきた小さなアフリカの村での結婚や愛のあり方だけでなく、むしろ西洋的でロマンチックな愛の在り方に二人は憧れを抱いていました。

そこで、ジャスティスの連れてきた結婚相手と結婚することに反発を示したジャスティスとマンデラは、ある日ジャスティスが気がつかない間に、ヨハネスブルクへの逃走を企てたのでした。逃走は見事大成功、ムケケズウェニのあるトランスカイからヨハネスブルクまでは飛行機で約1時間、車で7〜8時間かかるような距離ですが、二人の知恵を活かした結果、晴れて都会ヨハネスブルクの生活を始めることができました。

ヨハネについてからのマンデラの生活は、トランスカイでの贅沢な暮らしからは一変しました。鉱山で夜警の仕事をしてクビになったり、電気もない掘っ建て小屋の長屋に住んだり、学校に行っているわけでもなく(行けるお金があるわけもなく)、ギリギリの生活費で暮らす、まさにいまでいう「ニート」のような生活でした。

シェイクスピアのような恋をしたい!という都会に出てきた一番の目的も、現実にはとてもかけ離れたものでした。長屋の家事使用人として働いていた、ディディという、彼女を知る誰もが惚れ惚れしてしまうような素敵な女性にマンデラは憧れるも、当時まだ英語もカタコトで、食事をするにもナイフとフォークがあまりに下手すぎて、到底自分の気持ちを伝えるには至らなかったといいます。実際、一緒の食卓で食事をすることがあったときに、食卓にはチキンが出たそうですが、ナイフとフォークを彼女の前で使うのが恥ずかしすぎるあまりに、マンデラはその日チキンに全く手をつけなかったというエピソードもあります。

「とても美しい女性だった」*2と、後にマンデラは振り返りながらも、「プロポーズをしたいと思ってはいたが、断られる可能性がある相手に対しては気が進まなかった」*2と言います。世界で最も難しい問題の数々に勇敢に立ち向かったマンデラにも、たった一人の美しい女性にアプローチもできなければ、食卓のチキンにも手を伸ばせず、仕事や情熱を注いでやりたいこともうまく見つからず、見つけても長続きしない、なんとも情けな〜い時期があったのです。

後に、生涯マンデラのメンターであり戦友/親友となるウォルター・シスルと出会うことにまでは・・・。(第6話)

 

***

 

歴史的に最も偉大な事を成した人々は、崇高な存在として神格化される。多くの人にとって伝説や憧れになり、そのシンボル自体が次世代へのインスピレーションに繋がる。とても素晴らしいことです。しかし、さらに素晴らしいことは、彼らが辿った一連の人生の「ダイナミクス」に目を向けたときに見えてくる、非常に豊富な、具体的な学びの方だと私は思います。彼らの成功や、キラキラとした姿が、一朝一夕に作られたものではない事を知っていくことで、私たち自身にも実際に活かすことのできる、人間発達のヒントを得られるからです。

今日は、ロマンティックな愛を求めて都会に飛び出したマンデラの、その出だしのなんとも情けな〜い日々を紹介してみました。例えば皆さんの中に、何か夢を追いかけて、親や周囲の反対を押し切って自分の生まれた田舎や国を飛び出し、都会や海外に人がいらっしゃるかもしれません。それに比べれば、マンデラが逃走した理由は、かわいいものかもしれませんが、ここで注目したいのは「意志を持ち、勇気を振り絞って踏み出した一歩が最初に切り開くのは、冴えない/情けない日々、という始まりであるという現実」です。

冒険に出るその瞬間の情熱や理想が大きければ大きいほど、こうした現実に落胆する気持ちというのはとても大きくなってしまうものです。私も、「リーダーシップ・組織開発」という分野において仕事を始めた時は、「よし、日本の企業を、社員がみんな生き生きと働ける組織へと変えていくぞ〜〜!!」と意気込んでいたものですが、実際に仕事を始めた数ヶ月、数年というのは理想と現実との距離をひたすらひたすら引き離される、落胆の連続もやはりありました。他にも「この理論を日本に広めればきっと組織開発業界にも変化が起こる」そう思ってアメリカから日本に導入した理論も、後から後からその導入・定着の難しさや、逆に危険な側面ばかりが目立ち、自分が始めたはずのこうした動きが停滞してしまうこともありました。

こうした悩みや落ち込みに対して、今日のマンデラのストーリーは特段何かを励ますものではないかもしれません。特段、私たちの「意志ある逃走」を肯定するものでもないかもしれません。しかし、1つこのストーリーが確かに示しているのは、こうした「情けない日々、という始まり」は、「意志ある逃走」につきものであるということです。飛び出した瞬間というのは、情けない日々で当たり前なのだという事を、生きる伝説とも言われたマンデラの人生さえもが示しているということが、ここで注目すべきではないでしょうか。

 

そしてそれ以上のこと、それ以降にどのような展開が待っているのか、そこから得られる学びについては次回、第六話をお楽しみに・・・。

*2…Mandela’s Way, Fifteen Lessons on Life, Love, and Courage (Richard Stengel)

 

>>第6話


2017/8/13〜9/11の30日間、【今日から知るマンデラ】特集中!

誰もが一度は歴史の教科書でその名前に触れている・・・南アフリカ共和国でアパルトヘイトを廃止した自由の闘士、黒人初の大統領となった「ネルソン・マンデラ」。「聞いたことあるような・・・」「でも、誰だっけ?」というあなたも、今日この日からちょっぴり詳しくなれる、と思ったらちょっぴり好奇心が湧く、と思ったらあれれ、気付けば30話全部読んでしまっていた・・・・と、そんな機会をお届けすべく30日間、マンデラマニアのわたくしセラユミが楽しくお届けいたします。30のお品書き(随時更新)は、初回ブログにてご確認あれ。

【今日から知るマンデラ:第4話】信念と犠牲、釣り合いをはかる行動探求

16歳で割礼の儀式を済ませ、一人の自立した漢として認められたマンデラ(第3話)。いよいよ大学時代のお話に入ります。

今日は、あらゆる規則に制約を受ける社会や組織の中で「自分自身が信じるやり方/あり方とは何か、すぐに表現できるかどうかは別としても、常に模索を続けている人」にぜひ、読んでもらいたいです。

 

***

 

幼少期よりどこにいっても人から愛されるキャラクターであったマンデラは、大学でももちろん、先生・生徒の双方から大人気の学生でした。それなのに・・・実はマンデラ、入った大学から、なんとわずか2年で、退学処分にさせられてしまいました。

いったい、どうして人気のマンデラが退学を強いられてしまったのでしょうか?

このお話は、マンデラがおそらく最初に行ったであろう「自分の信念の重みを試す」ための”行動探求”でした。ある規則に抗議し、結果として受けた退学体験を含めたその一連の積極的な”行動”が、自分自身の中の信念がどれほどの重みかを確かめてみる”探求”そのものであったということです。

 

ムケケズウェニでお世話になった摂政ジョンキンタバの元をひとたび離れ、マンデラは東ケープにある南アフリカ唯一の黒人向け大学、フォートヘア大学に進学しました。当時の学生数は約150名、そのほとんどがマンデラのように、将来部族の長か、あるいは黒人社会において重要な役割を担うことが期待された貴族階級出身の若者でした。

大学には学校生活の規則なるものがありましたが、それは厳格なスコットランド人の学長により定められた、生徒にとって大変厳しいものでした。マンデラがちょうど大学二年生になった時、学生たちが「食事の質」に対する抗議を行い、マンデラも初めてその抗議運動に参加しました。校内の食事の質の向上を求め集まった生徒が、学生代表会議(≒生徒会)の選挙をボイコットする、というものでした。

全員がこの選挙をボイコットをしていれば誰も評議委員として選出されることはありませんでしたが、中には投票をしてしまい、結果としてなんと(大人気の)マンデラが評議委員として選出されてしまったのです。

マンデラは、その得票数が全校生徒の過半数に満たない中での当選であったため、選挙は無効だと考えました。しかし、学長はこれに反対しました。どのようなやり方であれ今回の選挙で選出された評議委員たちは皆その役割を担うべきだと言ったのです。マンデラは学長に向けて丁寧に主張をまとめた手紙を書きましたが、結局学長はマンデラに「評議委員を引き受けるか、さもなければ退学するか」という最後の二択をつきつけることとなりました。

 

どうするべきか悩んでしまったマンデラは、同大学にいた先輩に相談に行きました。彼は同じテンブ王族出身でマンデラの甥にあたるマタンジマという若者で、当時、マンデラにとって憧れの存在の一人でした。

マタンジマはこう言いました。「これは信念の問題だ。評議委員は引き受けない、ただそう言えばよい。」*2

信頼するマタンジマの助言に従い、結局マンデラは自分の信念に基づいて、フォートヘア大学を去ることになるのでした。

 

***

 

皆さんは、この時の大学二年生のマンデラの決断と行動をどのように捉えますか?

彼がこの時貫くべきだと決めた「代表者は真に多数民意の反映で選ばれるべきだという信念」の重みは、最終的に被った「大学退学という犠牲」の重みに対して釣り合っているか、それ以上のものでしたでしょうか?皆さんは、どう考えますか?

実はマンデラは、この時のことを、後に次のように振り返っています。「今の私ならあんな無茶な選択はしないよ。(中略)もし、あの頃の自分が今の私に相談に来たら絶対に大学は辞めてはいけないと言うだろう」*2。このように考えたのは”今のマンデラ”だけでなく、当時マンデラの保護者であった摂政ジョンキンタバも同じでした。退学処分を受けてムケケズウェニに帰り事態を告げたマンデラは、ジョンキンタバの大激怒を買い、その後間も無く兄弟のジャスティスと共に本家を逃げ出すことになるのです。(その後のお話は次回のお楽しみ♪)

 

もしもフォートヘア大学「卒業」の学歴があれば、それはこの後の反アパルトヘイト運動や、他のあらゆることに有利に働いたかもしれません。こうした大きな利益を失ってまで貫くことを決めた信念は、ほんとうに、その犠牲を払う価値があったでしょうか。

マンデラは自分がとった一連の行動と、その行動によって同時に遂行された探求を通じ、一つの学びを得ました。決して自分のもつ全ての信念が、いかなる状況においても同等で絶対的な重みを持つわけではないということです。それによって被る犠牲の大きさを考慮したうえで、優先順位をつけなくてはいけないのです。しかしそれは、あくまで、大学の規則に背いてでも信念を貫いてみるというマンデラの行動探求の先にこそ掴めた一つのバランス感覚でもありました。学長の最終警告に対し引き下がっていたとしたらそれはそれで、こんなにも早い段階で同じ学びを得ることはなかったでしょう。

 

行動してみないと、何もわかりません。行動にかけるコストと、得られる対価(貫ける信念)とのバランス感覚は、両者をあらゆる異なる条件の中で複数回試した者にしか、磨いていくことができないものです。実際、私自身もよく「勝負どころの見極めが悪い」とこれまでの上司に叱られてきており、なかなか最初からはコスト換算がうまくいかず損ばかりする(自分だけでなく会社をも巻き込んで・・・)ことが多くありました。クライアント先のずいぶん年も位も上の方にあまりにストレートに物申してしまったり…言っていることが間違っていなくてもそのタイミングが最悪だとよく怒られたものです。きっとこれからも、何度もあると思います。それでも、自分がした行動が巻き起こした結果に対して、長い時間をかけてでも何らかの形で責任を取る意志があるのであれば、やはりこうした挑戦は(もちろん前回までの学びを反映した上で)し続けるべきだと考えています。

いつの自分も、将来の自分や誰かにとっての「実験台」です。そしてその実験台に、「自分の信念」を載せてみることは、情報過多で自らの意志を見出すことがますます困難な時代に、とても大きな意味があることではないでしょうか。

*2…Mandela’s Way, Fifteen Lessons on Life, Love, and Courage (Richard Stengel)

 

>>第5話


2017/8/13〜9/11の30日間、【今日から知るマンデラ】特集中!

誰もが一度は歴史の教科書でその名前に触れている・・・南アフリカ共和国でアパルトヘイトを廃止した自由の闘士、黒人初の大統領となった「ネルソン・マンデラ」。「聞いたことあるような・・・」「でも、誰だっけ?」というあなたも、今日この日からちょっぴり詳しくなれる、と思ったらちょっぴり好奇心が湧く、と思ったらあれれ、気付けば30話全部読んでしまっていた・・・・と、そんな機会をお届けすべく30日間、マンデラマニアのわたくしセラユミが楽しくお届けいたします。30のお品書き(随時更新)は、初回ブログにてご確認あれ。

【今日から知るマンデラ:第3話】勇気あるフリをした臆病者

まだまだマンデラの幼少期、3つ目のお話です。

母の元を離れたってなんのこっちゃない、好奇心旺盛でいたずら好きのマンデラ(第1話)は、王の摂政からリーダーの在るべき姿「羊飼いの原則」(第2話)を学びながら、すくすくと育っていきます。学校の先生に褒められながら。摂政に叱られながら。

第3話は、マンデラやテンブ部族の属するコーサ族の「漢-オトコ-になる伝統儀式」を受けた16歳のマンデラくんのお話です。その前に一つ、小話を挟みますね。

 

***

 

「マンデラは南アの救世主だ」「マンデラは天才だった」。

世界からそのように評価を受けるたび、マンデラは「自分は救世主ではない、そればかりか弱みだらけで強みが一つもない、ごく普通の人間だ」ということを強調しました。彼がいつもそれをとても強調する背景は、幼少期の様子からも見てとれます。

マンデラは決して、幼少期から天才肌ではありませんでした。自伝には、摂政の息子(マンデラの兄弟にあたる)で同い年であったジャスティスと自分とを比較して書いている部分があります。ジャスティスは天才肌で楽天的、あまり努力せずとも軽やかに物事を成し遂げていく。それに比べて自分はコツコツと努力を積み重ねることで事を成し、何事も人より深刻に捉えがち。自分と対照的なジャスティスをみて、いつも羨ましく、憧れの存在だったそうです。

ヘぇ〜そうなんだぁ〜と、私はこの話を知って自分の中のマンデラの解釈を一つ改めなくてはいけなくなりました。マンデラが学校でいつも優秀な成績をとって先生たちから好かれていたのも、他でもなく、毎日毎晩机で勉強に励むマンデラ自身の努力と、一緒に住んでいた親族のおばさんの惜しみない助けあってのことだったそうです。マンデラの幼少期に関する話を読んだり聞いたりしていると、彼の少し不器用で素朴な一面を垣間見ることが、私はとても多くあります。

 

決して天才肌ではなかったマンデラ、さっそく今日の本題に入りますが、不器用なだけでなく、実はとっても “臆病” でもありました。今日のお話はそんな、「どちらかというと自分は不器用で臆病だ」と考えている私みたいな人たちに、ぜひお届けしたいです!

 

マンデラもその一人であったアフリカの民族 コーサ族 には、遊びやケンカをしては泣いたり笑ったりする幼い少年と、発言力や威厳を持ち合わせた一人前の大人の”漢(オトコ)”とを明確に分ける、ある儀式がありました。「割礼」と言いますが、皆さんは聞いたことがありますでしょうか。

私たち日本人が行う儀式として最も近い意味合いを持つのが成人式ですが、コーサ族の場合、晴れ姿で座っていたらウルトラマンやら著名人が温かいエールを送ってくれる、な〜んて微笑ましいものではありません。コーサ族が行う(文化上、男性のみを対象にした)「割礼」とは(Wikipedia)「男子の性器の包皮の一部を切除する風習」のことです。それがどんなに痛くとも苦しくとも「黙って耐える勇敢さと克己さ」があるかどうかを試され、クリアした者のみが “漢” として認められるという、厳しくも誇り高き儀式なのです。ヒェー

circumsicionsap985598790979.jpg

(写真出典:CBSN記事)

割礼の儀式は、成人になって然る時期だと親族から認められた10代の男子たちが、写真のように真っ白い粘土で顔や全身を塗り、冷たい風が肌を刺す真冬の中、毛布1枚に身を包んで行われます。真に漢としての忍耐強さを試すためにも麻酔は使われず、実はそのあまりの痛さや感染のために死者が出てしまう事もあり、毎年人権擁護団体や世界から問題視されている儀式でもあります。それでも、古くからの伝統と慣わしを信じる者たちは、両親、親族、村の首長たちが見守るなか施術師の小屋の前に一列に並び、ひたすら自分の番を待つのです。自分の中の臆病さとそして命のリスクに真正面から向かい合い、「まるで静脈に火が放たれるような痛さ」(マンデラ自身の回想録)*1をグッと堪え、すくっと立ち上がり、「ンディンドダ!(漢になったぞ!)」*1と大きな声で叫ぶのです。

 

16歳で割礼を受けたマンデラは、このとき「自分が誰よりも臆病であること」を目の当たりにしたと言います。自分の前後に並んだ男たち(ジャスティスを含む)は皆勇敢に小屋へ入っていき、施術後すぐさま「ンディンドダ!」の声を挙げたにも関わらず、自分は小屋の目の前に来るその瞬間までずっと内心震えたまま・・・施術の後にやっとのことで声を挙げるのができたのも、列の中でいちばん遅かったといいます。マンデラに限らず、コーサの人は日本人に似てとても「面子」を気にします。だから絶対に自分と親族が恥を書くことはしない!と誓って来たにも関わらず、露わになった自分の臆病さが悔やまれてならなかったようです。

しかし、マンデラが「自分は誰よりも臆病だ」と知っていることは、全く矛盾することを言うようですが、同時にマンデラの「勇敢さ」でもありました。やがて反政府闘争へ身を投じるマンデラは、当時の白人から身に覚えのない嫌がらせや拷問を受けたとき、演説の途中で白人警官から銃を向けられたとき、非暴力不服従から武力闘争へと舵を切る決断を迫られたとき、死刑宣告を迫られるであろう裁判にかけられたとき・・・いかなる場面においても、漢として、リーダーとして、あるいは一人の理想を追う者として、表情一つ変えず堂々たる姿と勇気ある決断を示してきました。

それは、マンデラが怖れを感じなかったためではありません。いかなる時も自分の中の怖れに気付きながら、認めながらも、そんな臆病な心の内に反して「勇気ある”フリ”を貫き通す」ことこそが「勇敢さ」であることを知っていたからです。このことはきっと、痛くても苦しくても、胸にうずめた顔をなんとかあげて、誰よりも時間がかかりながらも「ンディンドダ!」と叫んだ16歳のマンデラが、身をもって学習したことだったのではないでしょうか。

 

***

 

同じような話を、どこかで聞いたことがあるような気がしませんか?

私は少し前に流行った、Amy CuddyのTed Talk「Your body language may shapes who you are」の「パワーポーズ」を思い出します。彼女のパンチライン「Fake it till you become it」(”フリ”をし続けてください、それが本物になるまで。)は、多くの人に勇気を与えました。

自分が内心で動じているかいないか、自信があるかないか、そういったことに関わらず、「勇敢さ」は、自分がそういう”フリ”をまず始めそして貫き通すことで、必ず醸成されるものだというパワフルなメッセージ。このことを、Amyの場合は、前日に逃げかけたプリンストン大学院の最初のスピーチで、マンデラの場合は、施術のその瞬間まで心が震え続けていた割礼の儀式で、体験したのでしょう。

有難くもこうした先輩方から「勇敢さの種明かし」を教えられた”次の臆病者”の私たちの中から、いったい何人のひとが、そのまた”次の臆病者”のロールモデルになれるのでしょうね・・・!

*1… “Long Walk To Freedom(Nelson Mandela’s Autobiography)” -Nelson Mandela

 

>>第 4 話


2017/8/13〜9/11の30日間、【今日から知るマンデラ】特集中!

誰もが一度は歴史の教科書でその名前に触れている・・・南アフリカ共和国でアパルトヘイトを廃止した自由の闘士、黒人初の大統領となった「ネルソン・マンデラ」。「聞いたことあるような・・・」「でも、誰だっけ?」というあなたも、今日この日からちょっぴり詳しくなれる、と思ったらちょっぴり好奇心が湧く、と思ったらあれれ、気付けば30話全部読んでしまっていた・・・・と、そんな機会をお届けすべく30日間、マンデラマニアのわたくしセラユミが楽しくお届けいたします。30のお品書き(随時更新)は、初回ブログにてご確認あれ。

【今日から知るマンデラ:第2話】群の後ろにいる羊飼い

マンデラの幼少期のお話、第1話に続きます。

今日のお話を読んでもらいたい人は、普段からあまり大きな声で人を引っ張ったり鼓舞したりすることが好きではないけれども人を指導する立場に就いているという、「もの静かなリーダーの方々」です。

 

***

 

9歳になったマンデラは故郷クヌ村を去り、由緒ただしき「本家」であるテンブ王族の村ムケケズウェニに引っ越して来ました。

ちなみに皆さん、こうしてアフリカのことばで固有名詞を出すのは、文章をややこしくしてしまうのでためらわれることでもありますが、あえて紹介させてくださいね。だって、たとえば「ムケケズウェニ」って、なんとも可愛らしくありませんか・・・?アフリカの言葉は、日本語を話す私たちにとって決して発音しにくいものではない反面、文字と文字の連なり、その響き合いがなんとも斬新です。「ム」とか「ウム」「ン」で始まるものがとっても多く、たくさん知っていると、しりとりで絶対に負けない最強の選手になれちゃいますよっ!

 

さて話題を戻しますと、前回は詳しく述べませんでしたが、そのムケケズウェニ村でマンデラを養子として引きとった王族のお家とは、まさにテンブの王様・・・ではなく、王に変わって政治を行う「摂政」のお家でした。名前をジョンキンタバといいます。これも面白い名前ですね。意味は、「山を見るひと」。その名のとおり、「周りの視線を一身に集めるどっしりとした風貌の持ち主」だったそうです。”トラブルメーカー”の意をもつロリシュラシュラ(マンデラのアフリカンネーム)に、どっしりと構えた”山を見るひと”なんて、なんとぴったりな保護者がついたことでしょう!

もしもマンデラのリーダーシップについて書籍を読んだり話を聞いたことがある方がいたら、ここでちょっぴり勘がはたらくかもしれません。実はこの「摂政」の政治作法こそ、後の”偉大なるリーダー”としてのマンデラのリーダーシップの基礎を築きました。マンデラ自身はこう言っています。「指導者としてのわたしは、本家で摂政が示してくれたこの原則に、いつも従ってきた。」*1

世界から賞賛されるような叡智は、時に小さな小さな村の、小さな小さな山奥に潜んでいるものなのかもしれませんね。

 

では、摂政が部族の政治において示してきた「この原則」とはいったい、なんでしょうか。

それは、「群の後ろにいる羊飼い」*1の原則でした。

テンブ部族の会議は、どこかの村でもめごとが起こったときなど、必要に応じて召集されました。会議の開催を告げるお手紙は、摂政から首長へ、首長から村中のあらゆる立場・身分の人々(旅行者も含めて)へと広められ、誰でも集まってくることができました。

本家の前庭に顔がそろい、まず初めに出席のお礼と会議の目的を伝えると、それから会議が終了する直前まで、ジョンキンタバが口を開くことはもうありませんでした。ここで行われた民族自治の在り様を、マンデラは後に「最も純粋な形の民主主義」*1と説明しています。しゃべりたい人は誰でもしゃべることができ、話し方が上手くても下手でも、声が大きくても小さくても、たとえそれが摂政自身へのむき出しの批判だったとしても、ジョンキンタバはただ黙って、どの発言にも平等に耳を傾け、感情を表に出すことをしなかったといいます。

会議が終わりを迎える頃にようやく、ジョンキンタバは口を開き、これまでの論議の要点をまとめ、多様な主張の中から合意点を見つけだす手がかりを提示します。しかし、決して、反対意見を持つ人たちに対して結論を押しつけるようなことはなかったといいます。そして会議の締めくくりは必ず、歌や踊り、美味しいお食事が振舞われ、たわいもない昔話、そしてお互いへの賛辞と風刺とで皆が大笑いをして帰っていくのでした。

 

ジョンキンタバは、マンデラにこう教えたそうです。

「指導者というのは羊飼いのようなものだ。羊飼いは群の後ろにいて、賢い羊を先頭に行かせる。後の羊たちはそれについていくが、全体の動きに目を配っているのは、後ろにいる羊飼いなのだ。」*1

 

***

 

「群の後ろにいる羊飼い」。

これはまさに、マンデラがこの後大学にあがるときも、ヨハネスブルクで反アパルトヘイト闘争に参加しそれを率いる立場となるときも、牢屋の中で仲間と励ましあいながら過ごす日々も、そしてもちろん大統領になってからも、引退してからも、ずーっと、基盤とし続けた「指導者としての原則」でした。

さらに、

ー 指導者というのは、決して雲の上の存在ではなく、むしろいちばんの攻撃目標だという側面があること。

ー 少数意見が多数意見に押しつぶされるようなことがあってはならないということ。

ー どんな論議をしたとしても、前後で必ず緊張を解くこと(=笑いをもたらすこと)こそ、リーダーの役目であること。

こうしたこともきっと、この時に学んだのではないかと思います。

 

物事の正解や人々の要求がシンプルかつ明確で、後は少しでも早くそれを達成するだけであるといった状況の中では、人々を鼓舞できるスタイルをもつ声の大きいリーダーが活躍するかもしれません。しかし、たくさんの立場からたくさんの要望があるとき、そこで求められるリーダーは決して雲の上の人ではなく批判の対象になることをも受け入れられる、静かなる、”山を見るひと”なのだということを、ジョンキンタバはマンデラに教えてくれたのでしょう。

 

と、ここまでマンデラの指導者としての「基礎」をお話しておいてなんですが、マンデラのリーダーシップについては、今後も折に触れてお話する中で、一つ一つのスタイル同士の矛盾、つまり多様さが明らかになっていきます。時、場所、状況の「移動」と共に、彼のスタイルも「移動」をしていきます。そのなんとも軽やかな彼の心のフットワークについても、上手く伝えらていけたらと思います。

まぁでも、基礎は基礎。ジョンキンタバが見せた羊飼いの原則は幼き頃のマンデラの目にやきつき、その後の人生においてマンデラがいつでも帰ってくる土台であったことに変わりはないのです。

*1… “Long Walk To Freedom(Nelson Mandela’s Autobiography)” -Nelson Mandela

 

>>第3話


2017/8/13〜9/11の30日間、【今日から知るマンデラ】特集中!

誰もが一度は歴史の教科書でその名前に触れている・・・南アフリカ共和国でアパルトヘイトを廃止した自由の闘士、黒人初の大統領となった「ネルソン・マンデラ」。「聞いたことあるような・・・」「でも、誰だっけ?」というあなたも、今日この日からちょっぴり詳しくなれる、と思ったらちょっぴり好奇心が湧く、と思ったらあれれ、気付けば30話全部読んでしまっていた・・・・と、そんな機会をお届けすべく30日間、マンデラマニアのわたくしセラユミが楽しくお届けいたします。30のお品書き(随時更新)は、初回ブログにてご確認あれ。

[今日から知るマンデラ:第1話]いたずらっ子は変革期のリーダーに?

さて、始まります。今日から皆さんにとって、ネルソン・マンデラという人物が「教科書に載ってたような・・・」「聞いたことあるような・・・」「でも、誰だっけ?」という人 “以上” にちょっぴりなれるような機会をお届けしたいと思います。

アメリカ前大統領オバマ氏にとっても「永遠の憧れ」であるというマンデラの人生やその(自称)「ごく普通の人間である」という人柄は、必ず、何かしら皆さんにとっての勇気に繋がると信じています。全部のストーリーを全部の人に!というと欲張りな気もしますので、毎回、このストーリーは特にこんな人に知ってほしい!という人を書きますね。

今回は、「幼少期にいたずらが大好きだった人」にはぜひ、読んでほしいストーリーです。

 

マンデラの、幼少期のお話。

ネルソン・マンデラは、南アフリカの東ケープ州にあるトランスカイの中心地にある小さな村、ムヴェゾで生まれます。マンデラのお父さんは、ムヴェゾの首長(≒村長)の地位を受け継いでいました・・・・そのはずが!まだマンデラが幼い頃、お父さんは当時の行政官(首長をさらに取り締まっている白人の役人)の理不尽な命令に対し反抗的な態度を示したために、ななな〜んともあっさり、マンデラ一族は首長の地位を失うことになります。あらあっけない。

その「誇り高い反骨精神とかたくななまでの公正意識」(*1)は、見事、マンデラ父からマンデラへと受け継がれたようですね。

ムヴェゾ村首長の地位を失ったマンデラ一族は、隣の村、やや大きな村であるクヌへ引っ越すことになりますが、この村は、マンデラが物心ついてからたくさんのことを学んだ村として、無条件に愛すべき「故郷」となります。鳥をパチンコで撃ち落としたり家畜の世話をしたり、野生の牛やロバに乗ったり、男の子たちで「ティンティ」(≒チャンバラ)をして遊んだりケンカしたりしながら、マンデラが「自然の素朴な美しさとか、地平線の鮮やかさとかを愛し始めた」*1頃でした。後に27年間の投獄生活を終えてマンデラが最初にやったことの一つとして、なんと自身が過ごした”独房”に似せた作りの部屋を儲けた一軒家を、このクヌの土地に建てました。晩年(つい最近の2012年頃の出来事ですね)病気になり、自分の死を悟った時も、病院を即座に退院してこの家へ帰りました。

さて、そんな愛すべきクヌ村も、タバコを何本も吸いながらそのまま息を引き取った父の死を機に、いよいよ去ることに。9歳のマンデラは、母を置いて一人で故郷を去ることになりました。向かった先はなんと、トランスカイ全体を支配するテンブ部族の王家が住むムケケズウェニという村。マンデラの父が「ムヴェゾ村の首長」以外にもう一つ持っていた役割が、テンブ族の「キングメーカー」、つまり、王やその周囲の地位に就く人を決めるのに最も発言力のある、王族の相談役だったのです。父の助言で名誉ある地位につけた恩返しにと、マンデラはテンブ王族の一員として養子に迎えられ、英国式の教育を受けながら育ったのでした。理不尽な権力に逆らって地位を奪われても、本当にいい仕事をしていれば、地位はまたいずれ(自分ではなく子供にかもしれませんが)やってくるものなのかもしれませんね。

さて、その頃のマンデラはというと、なんでもコツコツとがんばる努力家で、成績が良く、学校の先生たちからはとても気に入られていました。その反面、テンブ王族が大切にしていた「キリスト教」にはあまり興味を持てなかったようで、日曜礼拝をすっぽかし、育て親にひどく怒られたことがあったそうです。すっぽかした理由がなんと、「よその村の少年たちとのケンカに加わるため」*1だったというのですから、、、なんともやんちゃですよね!(笑)

それだけではなく、このまちで最も大きな家で最も裕福な生活をしているにも関わらず、よその貧しい農家の庭に忍び込んではトウモロコシを盗み、その場で焼いて食べたりと、育て親には迷惑をかけたことが何度かあったそうです。このまちの誰もが、マンデラが王家の子供だと知っていたために、ほとんどの場合はその姿を誰かに目撃され、王の耳にすぐに伝わっては叱れれたと言いますが・・・^^;

トランスカイのまち全体を支配する王族というと、どれくらい偉いのかなかなかイメージがつかないかもしれませんが、当時このまちに住んでいたほとんど読み書きができない村人たちにとっては、おそらくいまの日本における「天皇族」と同じくらい崇高な存在であったといっても過言ではないと思います。そんな厳かな立場にありながら、このやんちゃっぷりは、なかなか大したものですよね。いまの日本だったら例えば、「眞子さま、隣人の畑でトウモロコシを盗む」って大ニュースになっちゃいますね!(って、そもそも畑でトウモロコシというところがあまり日本での現実感がないのですが・・・)

 

そんなマンデラのやんちゃなところは、時にしきたりを顧みずに好奇心に愚直に行動する、という特性と言い換えることもできるかなと私は考えます。マンデラに限らず、幼い頃に特にやんちゃやいたずらが好きだった人には、共通する特性なのかもしれませんね。

マンデラがそういった性格を持っていたのは、それもそのはず、なんと彼の持つアフリカンネーム(アフリカの黒人はだいたい英名とアフリカ名と両方持っています)「ロリシュラシュラ」という、お父さんが授けた名前に込められた意が、いたずらっ子そのものなのです。「ロリシュラシュラ」とはコーサ語で「木の枝を引っ張る」ことを表しますが、話し言葉では「トラブルメーカー」という意味で使われていました。まさに、生まれた当初から、マンデラのお父さんがその特性を見込んでいたのかもしれないですね^^

 

こうした、マンデラの幼少期の「いたずら好き」は、その後成長してからの彼のリーダーシップの特徴にも現れているかもしれません。大学の生徒会においても、反アパルトヘイト闘争を行なっていた非合法組織ANCにおいてでも。普段はチームメンバーや集団の意見を尊重するリーダーシップをとるマンデラですが、長い間同じやり方で物事が変わらない時には、幹部の誰にも相談せずに、「明らかに身内からも外からも非難を受けるようなやり方に一人乗り出していく」ことがありました。その瞬間には、「全てが最悪の方向に進んだ」と見られたり、最悪のリーダーとしてのレッテルを貼られてその地位を危ぶまれることも多々ありましたが、後から見ればこうしたマンデラの突発的な行動こそが、歴史の流れに角度をつけるターニングポイントとなっているのです。このことについては、南アフリカのアパルトヘイト博物館でも、「その両方(集団に従う姿勢と自ら方向性を切り開く姿勢)が、まさに時代に求められたものだった」と、しっかりと語られています。

 

***

 

皆さんの中にも、幼少期をよくよく振り返ってみたら、見つかったらこっぴどく怒られるとわかっていながらも、好奇心に連れられて「絶対にやっちゃいけないこと」をやってしまったりしたような記憶が一つ二つ、あったりしますでしょうか?

もしあったとしたら、その好奇心や、タブーを破ってでも行動する勇気(あるいはいい意味での無関心さ)は、皆さんの中の特性の一つであり、きっと大人になった今でも、必要に応じて引き出せるものなのではないかなと、マンデラのストーリーを追っていると思います。

例えばいま、働き方改革の実践を手助けする立場をしていて思いますが、まさにあらゆる場面で「新しいやり方」が模索されている変革期に、既存のタブーを破ってでも、何か新しい習慣を求めて行動してみる勇気は、まさに求められているものではないかと思います。企業の人事業界で話をしていると、何かと欧米と比べては「日本人(社員)は好奇心が少ない」なんて言われていますが、それは本当ではなく、会社という組織がたまたまそれを隠してしまっているだけだと私は考えています。

マンデラと同じように、幼い頃にたっくさんやんちゃをした!いたずらをした!けんかをした!という人は、きっと日本にも、どの世代にも、たくさんいるのではないでしょうか。そういう人の好奇心や勇気の強さは、きっと、人一倍だと思います。だからこそ、そういう記憶のある人こそ、職場で勇気を振り絞って最初の実験台になることで、その特性を活かしてみることができたら、それはまさにいまの時代にこそ求められていることかもしれません。マンデラが、そうであったように・・・・。

*1… “Long Walk To Freedom(Nelson Mandela’s Autobiography)” -Nelson Mandela

 

>>第二話


2017/8/13〜9/11の30日間、【今日から知るマンデラ】特集中!

誰もが一度は歴史の教科書でその名前に触れている・・・南アフリカ共和国でアパルトヘイトを廃止した自由の闘士、黒人初の大統領となった「ネルソン・マンデラ」。「聞いたことあるような・・・」「でも、誰だっけ?」というあなたも、今日この日からちょっぴり詳しくなれる、と思ったらちょっぴり好奇心が湧く、と思ったらあれれ、気付けば30話全部読んでしまっていた・・・・と、そんな機会をお届けすべく30日間、マンデラマニアのわたくしセラユミが楽しくお届けいたします。30のお品書き(随時更新)は、初回ブログにてご確認あれ。