学びの切り口を絞ることから

ブログ企画の第六期が始まり、今期は必ず1日1冊(あるいは1映画)、読んでから(観てから)それについて文章を書くことにしました。

自分の文章に、より多くの人の議論を交えたいと思ったからです。ここまで毎日記事を書いてきて、自分の文章を振り返った時に気づいたことは、わたしの文章の主語は「わたしは」という第一人称に終始しているなということです。つまり、議論が少ない。

私自身の考えを最初から最後まで述べるのではなく、いろんな人の(過去の人、異分野の人などの)いろんなストーリーや議論を交えて述べる文章を書きたいと思いました。それは文章に限らず、自分の意見形成の仕方をそうしたいと思ったのです。

そのために、まずは1日1冊本を読み、最低その1つの文献と自分の考えとを交差させるところから訓練を始めようと思ったのです。

 

ですが、、、いきなり、今日は白状したいと思います。今日読んだ本は、正直全く持って頭に入ってきませんでした。今日の本は「Discovering the News: A Social History of American Newspapers」。アメリカのジャーナリズムが、歴史的にどんな変容を遂げてきたか、その中で「客観性」というものの意味合いと価値がどう変わってきたかというお話です。が、最初から最後までほんとうによくわからず・・・白状しますが、今日は、この本については一切書けません。

 

ただ、この、最終的にわけがわからなかった本に費やした2時間の経験を経て、感じたことを書きます。

人生って、短いな、と思ったんです。

多くのこと、知らないことを学びたいと思った時、人生って短いなと本気で思います。

 

私がこのジャーナリズムの本を読みたいと思ったのは、ジャーナリズムで尊敬しているある知人に「ジャーナリズムを知りたければ絶対に読んだ方がいい」と言われた本だからでした。私は、ジャーナリストやその専門家になりたいわけではないけれど、ただすごく興味だけあって、専門性も何もないけれどもちょっと知ってみようかなと思ったんです。

ただ、人には「すんなり入ってくる言葉」と、「そうでないもの」があるんだとよくわかりました。例えばフロー状態の本を読んでも、ネルソンマンデラの本を読んでも、人事制度の歴史に関する本を読んでも、それが英語であろうが日本語であろうが関係なく、読めば読むほど頭に心にズーンと響いてくるのです。しかし、ジャーナリズムの本を一度読めば、どんなに良い本だという期待があっても、全くもって言葉が頭に入ってきません。

興味があるのに、あまりに専門外で、(良本すぎて、逆に)よくわからない。このことがショックでしたし、でもそれが現実だと感じました。

 

世界を知りたい、歴史の奥行きを知りたいと思った時に、人は自分の本当に好きで(しかも)得意な領域からでしか知ることができないのかもしれないと感じました。そう言い切るのはちょっと言い過ぎですが、でも、人生の時間がない中で、それが一番早い道なのだと感じました。

世界の全体観を掴みたい、歴史の流れを感じ取りたい、そう感じた時に、学び始める切り口はやはり「好きで得意なこと」にすべきなのかもしれません。いろんな切り口から、いろんな角度で、いろんな言葉で見てみたい、という欲張りな気持ちには、どこまでも答えられるほど人間のキャパって広くないのかも・・・(少なくとも自分には・・・)そう感じました。

こういうがっつり専門的な本は、自分の好きで得意な領域に絞るべき。がっつり深く行く時には切り口を絞る。そして横に広く知りたいときは、専門家でなくとも読める易しいわかりやすい本で理解の幅を広げていく。悔しいけどそれが実際の限界ではないかとい感じました。

 

これほどにまで、頭に入らないものがあるか・・・・

何でもかんでも、学問を深めて行けるわけではない。だから、どの切り口から掘っていくのかを考え、そこから縦と横と戦略的に広げていくのがきっと一番効率的に世の中を知ることができる道。あまりに良本すぎるジャーナリズムの本を進められ、憧れてしまったために得られた学びでした。

好きなこと、得意なことから。

自分という人間のキャパシティを受け入れて、短い人生の中で、最も効率的な知の磨き方を模索していきたいと思いました。

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I had no choice, but to be the first.

映画「ドリーム」、原作タイトル「Hidden Figures」を観てきました。

1961年、米ソ冷戦の真っ只中、まだ人類が月に到達してない中でアメリカとロシアが宇宙開発を競っていた頃・・・人種差別を最後まで州法として徹底し続けたバージニア州の研究所で、人種・性差別を乗り越えて活躍した(実在した)黒人女性3名のお話でした。

 

グッときた言葉をタイトルに持ってきました。

「I had no choice, but to be the first.」

「私には他に選択肢がない、(自分自身が)前例になるしかないのよ。」(確か字幕ではこう訳されていました)

 

ソ連に先を越されたNASAへの猛烈なプレッシャーが高まるなか、ロケットの打ち上げに欠かせない複雑な計算や解析に取り組み、その天才的な数学の実力を認められて宇宙特別研究本部で中心的な役割を担ったキャサリン。人間の計算の代わりに、新たに導入されたIBMのコンピュータによるデータ処理の担当に任命されたドロシー。白人専用だった学校で技術者養成プログラムを受け、黒人としても女性としても初のエンジニアとなったメアリー。その、白人高等学校への誓願をしにメアリーが裁判所へ行った際に言った言葉が、タイトルの言葉でした。

彼女たちは皆、前例がない中で批判や差別を受け続けながらも、「ロシアより1歩でも先に月へ行く」ために、NASAが成果を上げるために自分ができることにひたすら愚直に取り組みました。自分たちの頭脳を活かして然るべき職や立場につき、宇宙開発に貢献するために自ら機会を切り開いていきました。

自分が黒人であることも、女性であることも、そして黒人にも女性にもこれまでにエンジニアのポジション、管理職のポジションなど最もNASAの中で重要な職は与えられてこなかったという現状に、彼女たちの素晴らしい頭脳とそして身一つで立ち向かったのです。

 

変革の時代に必要なのは、彼女たちの持つ3つのことだと感じました。

「自分ではなくより大きな目的への愚直な行動力」と、そのために「自らが前例となる意志」、そして「目的のために活きる本物の実力」。

彼女たちはこの3つの力を備えていたために、人種・性差別など現実的な壁の全てを打ち破って、国の大きな目標に対し確かな成果を上げることができたのです。

 

私もこう在りたい。何か大きなものを変えたいと思った時に、色々な壁にぶつかるけれども、その壁にただただ抵抗したり文句を言うような「○○二スト」には、私はなりたくないです。

そうではなくて、国が、社会が、世界が向かうべき方向に対してあらゆる壁を吹き飛ばして前例を作りながら、本当に大きな目的を達成していくような生き方がしたいです。

I had no choice, but to be the first.

自分もこの言葉を言い続けて、生きていきたいと思います。

「自分の論理」と「相手の論理」を整理する

私は大学院で、「システム・デザイン・マネジメント学」を学びました。

システム思考と、デザイン思考と、プロジェクトマネジメントという3つのディシプリン(考え方/技法)を総合して学ぶ研究科です。

 

今日は改めて、うちの研究科が出している『システムデザイン・マネジメントとは何か』という本を読み、その統合された学問が何なのか、何故必要なのかを考え直してみました。

 

社会は複雑化してきている、ということがよく言われますが、私は「社会はもともと複雑だが、その複雑さがより顕在化してきている」のが現在だと思います。これは、自分自身の経験から思うことです。私自身が、ちょうど大学生活の前半頃までずっと、”世の中に正解はひとつ”と思っていたからです。高校のキャプテンをしていた時も、大学でNPOの代表をしていた時も、ずっと、”1つ”答えがあるという信念のもと、自分はそれを追求し正しく導くリーダーであろうとしていました。

それでも幸い、私は比較的柔軟なリーダーでした。それは、単に私が理性よりも直感に任せた人間だったので、変化が訪れた時には、自分の中の理性を正す暇もなく直感が先に働き、自分の方針をよく直感的に変えたものでした。でもその時はまだ、「正解はたくさんあり、その時その時にあった答えを皆で出していくしかない」というような考え方はありませんでした。その証拠に、私の発言はいつも強い口調でピリオドを打つ、断言的な物言いでした。

 

しかし、そんな私が大学後半でアメリカに留学に行ったとき、喋りに自信のあった私に突然「喋れない時期」が訪れました。この時がまさに、正解が一つではないと知った時でした。世の中のたくさんの価値観、たくさんの正解に気がついた時でした。

何故それが起こったのか、それは、私にとってこの時期が一番、”自分の欲”にしたがって毎日を生活してみたからだったと思います。日本にいた時にはなんだかそれっぽい正解を探して、狭い世界の中で全体的に正しそうなことをいつも口にしていました。ある時点でそれに飽き飽きしてしまった私はこのアメリカ留学をチャンスに、自分の私利私欲に従って、やりたいと思ったことをなんでもやりました。その代わりに、「人にも干渉しない」という新たな試みもしました。いろんな人のことを気にし、気にしてもらいながら生きるという集団的な性格から、「自分も勝手なことをやるから、あなたも勝手にしたらいいんじゃない?」と、そんなスタンスに変えたのがこの1年間でした。

 

その時、気がついたのです。2つのことに。

1つは、世の中ってこんなにも自由なんだなと。別に自分がどんなに自分の欲を追い求めたって、世界はかなりの器の大きさでそれを容認してくれるし、世界を傷つけることもなければ、すぐ隣にいる友人を傷つけることもない。

2つめは、人が動くのは、正しいからでなく、楽しいからという理由なのだということでした。心なしか、あまり人のことや全体のことを気にかけすぎず適度に無関心になったこの時が、最も自由に生活したこの時が、実は人生の中で最も人が自然についてきた時でした。ただただやりたくて現地で進めていたプロジェクトに、全く知らない年上の優秀な現地の会社員たちがたくさん手伝ってくれたりしました。

この経験を通じて、私は、「世の中で唯一/最も正しい正解」みたいなものに全く興味を持たなくなりました。そして、少し投げやりではありますが「みんな勝手にやりたいことやればいいじゃん」「どうでもいいじゃん」「その方が誰かが社会を無理矢理に変えて窮屈になることなく、平和にやっていけるのではないか」という気持ちになりました。

 

こんな自由人、多少他人への無関心人になって帰国し、それから3〜4年が経ちました。あの時は、どこに属することもなく「ただ一人」で行動をしていたからこそ、気づけた境地があったなと今振り返って思います。

今、またいくつかの会社や集団に所属し、複数のチームを持つ中で、正解はなくとも何か「共通の価値観/方針」を持つことが必要とされる場面がたくさんあります。

そんな現在の状況の中で、私は留学時に知った「正解はない、みんな勝手にやればいい」という境地の少し先に、とても大切なことを実感している気がします。そして、この感覚を手にするのに、この留学時の投げやりな境地に至ったことが何よりも大切だったということも実感します。

 

それは、「自分の論理」と「相手の論理」を整理する力の重要性です。それは、何か一つの目標や方針を決める時に、「きっと1つの正しい絶対解があるはずだ」という前提を持っていたら絶対に育むことのできない力です。「自分の論理」はあくまで自分の世界の中だけで通用するものであり、「相手の論理」もまた、あくまで相手の中だけで通用するもの。それは自由でよくて、違って当たり前。その中から一つの”共通のもの”を見つけていく時に大切なのは、まずそれぞれの全体像と違い、関係性(位置関係)を整理していくことではないでしょうか。

整理した時に初めて、「さて、こんな私たち同士でどんな答えをつくってみますか?」という議論ができる。それは、「私」という世界も、「相手」という世界も出て、ようやく「私たち」というチームの世界としての議論の始まりなのです。

 

回想録が長くなりましたが、「システムデザイン・マネジメントとは何か」、この本が、つまりうちの研究科が教育しようとしているのは、まさに、この単一のディシプリンを超えていかに複数のディシプリンを「整理するか」ということだと再確認しました。

整理して初めて、共に新しい答えを作ることができ、共にマネジメントしていく術を考えることができるのです。

 

この学部は、「福沢諭吉がもし今の時代に生きていたらどんな学部を作るか」という議論の中から生まれた学部であります。これは、福沢先生の考え方に基づき、その上で、福沢先生の当時の答えを超えた新たな解ではないかと思います。

なぜなら、福沢先生にとって学問とはもともと「物事の理(=たった一つの正解)」を追求することだと考えられていたからです。しかし、常に新しい時代の流れを取り入れ、多角的な面から物事の理を追求するという考え方そのものは、福沢先生の考え方の基本ではありました。

だからこそ、福沢先生の考え方を用い、福沢先生の答えを超えた、そんな学問が「システムデザイン・マネジメント学」なのではないかと思います。

それでもエレベーターで会えば、他愛もない話をする。それでいい。

「世界中を見渡しても、隣国同士はたいてい仲が悪い。その原因の一つは、文化が近すぎたり、共有できる部分が多すぎて、摩擦が顕在化せず、その顕在化しない「ずれ」がつもりつもって、抜き差しならない状態になったときに噴出し、衝突を起こすという面があるのではないか」

ーー『わかりあえないことから』講談社現代新書/平田オリザ著

 

この本を読んで、ある大学院でのエピソードを思い出しました。

私には、いつも自分の研究に100%賛同し、応援してくれる指導教員の他に、修士論文の「副査」として指導をしてくださるもう一人の指導教員がいました。

論文を提出する前に、副査の先生にも見てもらって、アドバイスをいただくのですが、なんとこの先生に相談に行ったときに言われた言葉は、こうでした。

 

「ちょっと君ね、申し訳ないけど、君の研究は僕には全くわからない。全く共感できないし、この実験僕だったら絶対被験者になりたくない。嫌だね。」

最初に頂いた言葉がこれで、そこからアポイントメントをとっていた30分の間ずっとこの一点張りでした。

「なるほど・・・先生、あともう論文提出まで1ヶ月なのですが、先生のいわれた疑問を解消するために、何かできることがありますか?どう改善したらいいですか?」私はこう聞きましたが、返事はこうでした。

「うーん、でもこれで主査の先生はいいって言ってるんでしょ。じゃあ、これで出してください。」

全く持って直しようがない、取り扱いようがない、そんな反応でした。

 

副査の先生はとっても優しくて穏やかな性格で、私は大好きでしたし、比較的仲良しでした。しかし、この研究の面談において彼が「本当に賛同できない」と全く悪気のない顔で正直に話してくれたとき・・・私は先生の研究室を出た瞬間に、悲しくて堪えられず、涙を流してしまいました。

たまたま廊下で会った同期の友人にその後30分ほどかけて慰めてもらいながら、「もう直しようがない、確かに先生のいうこともわかる。私は2年間かけてこんなに人から受け入れられない研究をしてきたのだろうか、もう一度やり直したい。このままじゃ出せない。」そう嘆き続けていました。

 

しばらく嘆き、改善の余地がないなりにも改善策を泣く泣く考え、そして主査の先生に相談をしに行きました。すると、こういわれたのです。

「彼が受け入れられなかったのは、どこなの?」

「〜〜の部分です。」

「でも、〜〜の部分が、世羅さんの研究の一番面白いところで、これまでの常識と違うところを言っている部分でしょ。だったら、〜〜の部分をむしろもっと前面に出すべきなんじゃないの。「これは、これまでの研究とは全く逆の、〜〜という研究なんです」って、真正面から言ってやったらいいじゃないか」

 

つまり、食い違っている面を一番前面に出す。最初から断りを入れる、というアドバイスでした。あなたはこう信じているでしょうけれど、私はこう信じているんです。そこでまず、「えっ」とあえて反感を買う。そしてその後、研究の成果や、そうであることの根拠を伝えていくのです。

なるほど、私にとっては斬新な方法でしたが、主査の先生の意見を聞くたびに、そして自分でも副査の先生と食い違った部分を考えるたびに、やはりその食い違った部分こそ、私自身も譲れない部分でありました。そして、副査の先生も譲れない部分でした。

だったら、せっかくこうしてクリアになったなら、あえて食い違いを前面に出したコミュニケーションをする。初めての試みでした。

 

私は修論発表のその朝、もう一度副査の先生のところへ行きました。もしかしたら、敢えてこうしてクリアにしていくことで、全く新しい常識を作り出そうとしているんですということを明らかにすることで、聞く耳を持ってもらえるかもしれない、そんな期待を抱いて行きました。

しかし、結果はやっぱり、先生と私の意見が全く持って交わらない、掠ることもない、興味さえ持ってもらえることがない、その大きな隔たりが明らかになっただけでした。

私がそれでも先生とわかり合うことに対して積極的な意思を示したからか、先生はこう言いました。「これはね、多分僕の問題なんだよ。僕にはどうしても、君の視点が受け入れられない。だけど修論発表の質問で公にそれを言ったりはしない。これは僕自身が受け入れられないだけだから。」少し困った表情で、でも率直に、そう言ってくださいました。

 

それを聞いた私は、なんだか変にスッキリした気分になり、思いきって修論発表をしました。副査の先生は、コメントを求められた時に、一生懸命に当たり障りのない質問を、彼の精一杯の善意を使ってしてくれました。しかし、最後に先生が私の研究に対してつけた評価は、とっても悪い評価でした。

 

私と副査の先生は、分かり合えなかった。交わりも、掠りもしなかったどころか、興味を持ってもらうところへさえ行かなかった。「絶対的な拒否」のようなものでした。

しかし、その全体構造が見えた時、それがごくしょうがないものに見えて妙に納得してしまったし、何より、それほどに譲れない先生の率直なこだわりと、私自身の同じくらい譲れないこだわりがぶつかったのだという事実が、なんだか愛おしくすら思えました。

 

発表が終わって数日後、私と副査の先生はエレベーターで会いました。少し気まずそうに会釈をした私たちは、3階から6階へ向かうエレベーターの中で、研究とは全く関係のない話をしました。「先生、この間シリコンバレーで会ってきましたよ、先生の紹介してくださった○○さん。本当に楽しいお話の時間をもらいましたよ〜。ありがとうございます!」「あぁそうですか、それは良かったです。いまもまだ会ったりしていますか?」「してますよ、先週もまた日本にいらっしゃったので、飲みに行ってきましたよ」「そうですか〜。」なんて。

エレベーターが6階についた時、笑顔でまた会釈をして別れました。

 

こんな感じでいいんだな、人とのコミュニケーションって。

そんなことを思いました。

全部が全部分かり合えるなんて、むしろおかしいんだ。そんなこと期待したり、前提にしたりすれば、私はしょっちゅうショックで泣いてしまうことになるし、相手とも気まずいままだ。

お互いにこだわりを持っているからこそ、分かり合えないのです。そして、最後まで分かり合えない部分は、もうそれでいいのです。触れる必要もなくて、それ以外で分かり合える部分があれば、そこで会話を楽しんでいけばいい。

コミュニケーションって、これでいいんだなぁと思いました。

 

平田オリザさんの『わかりあえないことから』を読んで、そんなエピソードを思い出しました。

有様としての平等ではなく権利としての平等

慶應大学大学院の修了式で、終了証書と共に、「学問のすすめ」をいただいた。

学問を終えたタイミングで、学問のすすめを手渡される、なんとも生きな計らいなのでしょう、と思いました。

 

学問のすすめ、恥ずかしながら13年間慶應義塾に通っていながら初めて本のページを開きました。

なんて奥深い本なんでしょう。今読んでも、福沢諭吉先生が書かれた一文一文を、自分がどれだけその本意を理解できているのか、学びを十分に得られているのか…終始、緊張感が漂います。

 

学問とは何か、学問とはなぜ重要か、たくさんのことが書かれています。しかし、一番印象に残っているのは、比較的に冒頭に書かれていたことでした。

「学問のすすめ」の冒頭文は、皆さんご存知、有名な始まり方ですよね。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」

人は生まれながらにして平等だ、ということ。しかしこの次の章では、こんな断りがあります。

「初編のはじめに、人は万人皆同じ位にて生まれながら上下の別なく自由自在云々とあり。(中略)故に今、人と人との釣り合いを問えばこれを同等と言わざるを得ず。但しその同等とは有様の等しきを言うに非ず、権利通義の等しきを言うなり。」

と。

 

「人はみな平等」とはよく言うものです。美しい言葉ですよね、でも、何が平等であるか?ここをしっかりと認識することが、とても大切だと思いました。

今年の3月に、南アフリカに行ってきました。1991年にネルソン・マンデラ氏が初の黒人大統領となり、アパルトヘイトが終わって、「いかなる人種も生まれながらにして平等」である新生南アフリカが誕生しました。

しかし、この「平等」とはやはり、「権利の平等」ですよね。このことに気付けるかどうかで、平等の権利を保障された人たちが「次に何をするか」ということが変わってくるのです。「平等」の解釈次第で、態度が変わり、行動が変わります。

私が訪れたときに、数名の黒人の大人から聞いた言葉は「アパルトヘイトが終わっても、ちっとも平等じゃない。むしろより、不平等になった」ということでした。

彼らが言っている「平等」とは、なんの平等でしょうか。おそらく、「有様」の平等でしょう。

 

この「平等」の解釈が変わったら…

人が生まれながらにして平等であるのが、「権利」だとわかったら…

 

彼らの生きる態度は、行動は、どう変わるでしょう。

ネルソン・マンデラ氏が、アパルトヘイト法廃止と共に一番に取り組んだのは、「教育機会の整備」だったということを、忘れてはいけませんね。

 

学問とは、もともと人が生まれながらにして与えられている「権利の平等」を、生活の「有様の平等」へと近づいていくものなんでしょうね。

リーダーの役割は「緩める」こと

「優れた指導者達は、どのような性質のものでも社会から緊張を取り除けば、ビジョンを持つ男女が社会に影響を及ぼすのに理想的な環境が作られ、創造的な思想家が中心的な役割を果たすということをよく知っている。」

と、ネルソン・マンデラは言いました。

 

優れたリーダーの役割は、社会やチーム、その場から「緊張を取り除く」ことである、ということです。本来誰もが持っている 自由 を不必要に阻害してしまっている 緊張 の存在がどこにあるか、それを常に察知して自ら取り除くことで、創造的な人材が自然と活発に活動するようになります。

 

このことは、様々な会社を訪問する機会をいただき、コンサルとしてお手伝いをさせていただいている中でますます感じます。「コンサルがくる」となると、最初の瞬間はどの会社の人たちも、さらにカチコチに固まって緊張した状態で私たちを迎えてくれます。何を指摘されるのだろうか、どんな風に彼らが関わってくるのだろうか、彼らの警戒心を高める懸念がたくさん浮かんでくるわけです。

このカチコチの緊張感に対してどう挑むか、というところでそのコンサル会社の特徴が別れるところでしょう。こうした緊張感をうまく使って自分のオーソリティを高め、信頼感を得ることにつなげる、という会社もあるでしょう。

私が自分の会社が大好きなところが、この緊張感を「一瞬のうちに溶かす」力を持っているところです。笑顔で歯を見せながら部屋に入り、手当たり次第(目が合い次第)みなさんと会話をしていく。今日は緊張してますか?皆さん今日は朝ごはん食べましたか?今日はどんな気分ですか?会社楽しいですか?今日どんな感じがいいですか?厳しくいきますか?緩くいきますか?な〜んて適当な冗談をベラベラと交わしていきます。そんなプロセスを経て、「なんだ今日は肩肘張らなくていいんだ」とみなさんの表情と体がみるみる緩んでいくのを感じます。

 

創造性と、一人一人のほんとうの魅力/能力は、ここからしか開かないと思います。

強制的で一時的なものではなく、真にその人の中から、自分の意志として、冷静な選択肢として湧いてくる能力や創造性は、このようにその人が自分に与えられた「自由」をしっかりと認識した時に、起こります。

誰も強制していないのに、勝手に素直になり、勝手に熱くなり、勝手にアイデアを出してきてくれます。

本当に創造的な人が、自然と場の中で目立つようになります。

 

こういういくつもの現場を見てきて、やはりリーダーの役割は「緩める」ことだなと感じます。これは思い切り性善説の立場に立った考え方です。でも私は、それで間違っていないと思っています。

緩めるということは、直接的に強制的に誰かに何かをやらせることではありません。適切な選択肢と行動が生まれる環境を間接的に作るということであり、マンデラの研究者はそれを「アート」としての政治の仕方だという風に名付けました。

場を緩める、アートとしてのリーダーシップ。

 

そこらへんのリーダーシップ論なんか読むよりも(自分もその類のものを翻訳した一員ですが)、今日も明日も、私は冗談やユーモアのセンスを、コツコツ磨いていきたいと思います。

 

I am the captain of my soul.

I am the master of my fate. 私は自分の運命の支配者だ。

I am the captain of my soul. 私は自分の魂の指揮者だ。

 

「インビクタス」というネルソンマンデラの映画の中で出てくる、

「インビクタス」という名前の詩の最後の二節です。

 

私は、このとてもシンプルな言葉が好きです。

当たり前の言葉なのに。

 

私以外の誰が、私の魂の指揮をとるのでしょう? 誰もいません。

だけれど、こんな当たり前のことを忘れてしまうし、こんな当たり前のことが、すごく難しいですよね。すごく難しいですよね。

 

だから、すごく丁寧に気をつけなくてはいけないし、すごく努力がいります。

私にとってその具体的な努力の一つが・・・

 

やっぱりこの、ブログです。

最初に始めるきっかけを作ってくれた北村勇気には本当に感謝しています。

 

魅力的な友人がもやもやと苦しんでいるのを目の当たりにしたり、

経営者であるいい大人同士のまるで小学生のような揉め事を電話で延々と聞いたり、

現場の一人一人のことを考えているフリをしながら現場へ行かない人事がいたり、

代理店を鼻であしらう人がいたり、

毎日いろんな気持ちになります。まるで何か自分でないものに掻き回されているような気持ちになってしまうこともあります。たぶん、実際それも事実と言えます。

 

だけど、どんなに掻き回されて、どんなに忙しくて、どんなにガサツになりそうで、どんなに「もうとにかく寝ちゃえ!」そんな風に投げやりになりそうな夜も、

「これで寝て気持ちがぐちゃぐちゃのまま1日を終えるのか」

「それとも一度、無理矢理にでもパソコンに向き合って一つブログと対話して寝るのか」

そういう問いが毎日待っています。

 

この問いと、やるぞという意志を応援してくれる、一緒にやっている仲間達の存在。これほど、自分が自分をきちんと意志を持って生きるにあたって大切な役割をしてくれているものはありません。

それが「ブログ」という手段ではなくなることもあるかもしれませんが、

この大切な、自分が自分を生きるために必要な時間を、死ぬまでずっと、毎日持ち続けたいです。