わかりやくすないものに価値がある

わかりやすいものより

わかりやすくないものに、

価値がある。

例えば、うちの会社はコンサル会社じゃなくて未来創造会社と名乗っている。

たいへんわかりにくい。

わかりにくいからよく、いざ商談でわかりやすくするためにはコンサル事業ですよ、と、いってしまう。

未来創造といえばわけがわからなくて依頼できなかったのが、コンサル事業ですよといえばわかりやすくて納得がいき、依頼がくる。

どちらの言葉で言い回しだとしても、結局、やっていることは変わらない。

「あぁこれね」と相手の中に最初にイメージかつくかどうかの違いだけれど、結局そのイメージ通りのものがデリバリーされるのであれば、私は、ほんとうにそのデリバリーの意味はあるのだろうか?と思ってしまう。

イメージにないところ、期待になかったところ、全く予期もしなかったこと、そこに価値がある。

ただ、最初にわかりやすいイメージがつけばつくほど、クライアントの中に「どんなストーリーがこれから生まれるだろう?」という不安感、ゾクゾク感、緊張感、だからこその好奇心や謙虚さ、探究心は失われる。

もう「勝った」「これでいける」という安心感が、そういうものをなくさせる。

それはとても本質的でない。

だったら、最初の安心感なんてわざわざ作らないほうがいい。

つまり、「わかりやすさ」とは、会話のその最中に感じるほどに絶対的な価値ではないと思うのだ。

わかりにくいことの方が、互いに緊張感や好奇心を持ち続けることができる。だからこそ、ハラハラして、だからこそ、どんなときも丁寧でいられて、だからこそ、深い楽しみを味わえる。

毎日毎日、大きな組織やチームを抱えるクライアントと接しながら仕事をしていくなかで、もちろん、わかりにくいことをわかりにくいままにしておくことの弊害や問題も嫌という程経験してきた。

そのたびに、これ以上にわかりやすい表記があるだろうかと思えるほどの資料を心を込めて作ってきた。

それでも。

それでも、「わかりにくい」ことを「わかりにくい」ままにすることの価値を私はとても愛してる。

とっても、大切にしたい。

そしてその価値を、伝えるのではなく伝わる形をこれからも目指していきたい。

ことば

ことばがスルッと

喉を滑り台のように滑り落ちる

あまりに一瞬で

自覚すらない

そういうときが

好きじゃない

自分のやっていることに自信が出たり

目の前のことが面白くて夢中になりすぎるとき

たまにそういうことが起こる

ことの背景は嬉しいことでも

ことばが滑り落ちる、その感覚は好きじゃない。

丁寧に丁寧に

両手で送り出すんだ。

ことばは、声を通じて相手に触れる。

滑り台はスルッと滑っても

地面に落ちる時には負荷がかかる

こちらは気持ちが良くても

受け取る方はその負荷を処理する

そういうシステムはいやだ。

ことばは両手で

きちんと送りだす

相手に届くまで

きちんと。

自分の中にあるものを信じられるか

「4月は君の嘘」

というアニメをネットフリックスでみた。

楽譜通りに弾く「ヒューマンメトロノーム」のピアニストと、

音楽を勝手に自分のものにして弾く天真爛漫のバイオリニスト。

どちらの性格も自分の中にあるなーと思いながら見ていた。

最近いい仕事をしようと思うと、とことん本を読む。本を読み、あらゆる既存の情報から勉強する。

頑張るということは、自分の外にあるものからいつもより沢山学びとインスピレーションを得ること。

でも、そうしているうちに外から入った何かしらの情報が自分の中のものを突き動かして、そのアイデアや勢いがひとりでにパソコンを開き、提案書を作り始める。

だから、外からの情報で仕事しているようで、実はそれを頼りに内側のなにかを開いているのかも?

さて、どうなんだろう?

自分の内側にあるものを信じ、委ねる

外にある何かしらの正解を手放す

それってどういう感覚なのかなー

1日の終わりになかなかブログに戻ってこれない…

と、いうのはあまりよくない証拠。

毎日、その日をふりかえる。

短くても、ふりかえって

今日自分がなにを感じ考えたのか

少しでも書き残す。

物凄く大切なのに、

こうして時折すっ飛ばしてしまいます、反省。

日常で楽しい時や何か仕事や生活にのめり込んでいる時ほど忘れてしまうのですが、これが良くないんですね。フロー状態の話と繋がります。

今日もフローの本執筆をしていたのですが、

「フローに入る」というトライをした人に必ず伝えなくてはいけないのは、

「フローに入らない時間」(フローから出た時間)を必ず作ることです。

なぜかということを簡単に言うと、フローの時は「無意識」がはたらいてパフォーマンスを出してくれます。

無意識の時は、人の論理思考や分析思考が行われる前頭前皮質が機能停止しています。

つまり…

フローの時は、分析思考が働いていない。

それにより、その瞬間のひらめきや創造性は高まるけれど、そればかりだと、その人の思考能力がどんどん衰えてしまうのです。

だから、

どんなにフローに入っても、

楽しくてわれを忘れるほど1日を満喫しても、

最後に冷静になって振り返り、頭を使う時間を必ずとる。

この「意識」にしっかり戻る時間が大事なのです。

自分に説教でした。

仕事が楽しすぎてとまらない・・・

どうしよう・・・

ってなっている2019年 年始です。

 

その理由として、

この長期休みで、タンクにたくさん燃料を積めたような気がしています。

 

読みたかった本たちを読み、スクラップ帳にまとめるまでの時間がとれたこと。

リサーチしたかった事例をじっくり調べられて、スライドにまとめるまでの時間がとれたこと。

これまでの案件を振り返って、「もっと別の考え方がないか?」と考え改めて、新しいメソッドをつくれたこと。

 

タンクに燃料が溜まってくると

走ることが楽しくなります。

 

今後も意図的に休みをとること、とても大事にしたいです。

リーダーシップとは、自分に知識もスキルも何もないときこそ唯一とれる行動である。

例えば組織の中で問題を発見したとき…

 

その問題が複雑で、また根強くて

問題が起こった根本原因もよくわからない

どうすれば解決するのかもわからない

解決方法をどう探っていいかも検討がつかない

自分には解決のスキルも何もない

そんな風に全くわからない状況に接したとき

 

それでも唯一、できること

それは、「リーダーシップをとる」こと。

 

知識も何もなくても、

全体像も何もわからなくても、

解決に向かうプロセスも全く浮かばなくても、

唯一、とれるもの。それがリーダーシップ。

 

・違和感をとりあえず誰かに伝えてみる

・一人でだめならまた一人、また一人と当たっていく

・とりあえず問題があるということだけチームの中でクリアになってきたらそれだけでも大きな前進

・その上でどうしたらいいかをまた人に尋ねていく

・本を読む

・スキルをつけてもいいし、誰かのスキルを借りてもいい

 

なんでもいいけれども動き続けて、

人に助けや意見を求め続けて、

とにかくわけわからないなかでも最初の違和感の解決に向かって進み続ける意志と行動力。

 

自分にとって

リーダーシップとは

そういうものだなと思います。

ゆっくり、じっくり。

夜中11時にもなれば、

お家では旦那さんがぐっすりと寝ている時間です。

小さい家なので、リビングの灯りもパソコンを打つ音も寝室に聞こえてしまうため、今日は携帯からのブログ投稿です。

結婚をしてから、自分が何か目指すものがあるときに、それを達成するまでのスパンをより長くみるようになったなと感じます。

今日は上司に、「実はいろんな人と話すと、多くの人が、世羅さんは結婚が遅そうなタイプなのにこのタイミングでしたことが意外だ!という話をするんだよ」と言われました!

そういった見方が多いことに自分自身納得がいくのは、けっこう仕事や自分の興味分野においてやりたいことへの情熱量が強くて、しかも理想に向けて「今この瞬間に早く進みたい」というメッセージを全身から醸し出している自覚があるからです。笑

ただ、そんな私にとって結婚という機会が、はじめて「時間」というものスペクトルを教えてくれたような気がします。

このスピード感で到達しなくてはいけない、そのためにいまこの瞬間の一歩一歩の精度はこの完成度でなくてはいけない…

あらゆる望みに対してタイトな見方をしていた自分の時間の捉え方が、全体的に少しずつ緩み、よりゆっくり、じっくり歩んでいこうとしています。

新しい経験が、新しいものの見方をくれる。

この繰り返しがたのしいなぁ。

ゆっくり生きる。この感覚をもっともっと知っていきたいです。

答えよりロジック、ロジックより刺激。

今日から、新年初仕事、という方が多くいらっしゃるのではないでしょうか。

私は本日祖母の告別式を行ったため、明日から仕事復帰です。夕方ごろから、徐々に頭を仕事に残すために一社一社自分が携わる案件のことを考えていました。

 

組織の課題を解決するコンサルタントとして、我々は何を提供すべきか?

ということを、日々、試行錯誤します。

その自分なりの答えもまた時とともに更新されるとは思いますが、去年一年は、仕事を通じてこんなことを学びました。

 

・複雑な課題を前に困っている相手にコンサルとして提供すべきは、「答え」ではない。

・答えよりも、答えにたどり着くための「ロジック」を、相手に理解できる形で提供すること。

・ただし、これまでにない斬新で創造的な解決策を相手が出すことを支援したいのであればロジックだけでは足りない。

・この問題解決に参加する一人一人の現在の思考パターンを超えるアイデアを生むための「刺激(インスピレーション)」が必要だ。

 

答えよりロジック、ロジックより刺激。

 

なぜ、答えではダメなのか。

我々のパートナー(弊社ではクライアントのことをパートナーと呼んでいます)を含め、非常に多くの事業会社がコンサルを雇った後の失敗例の一つとして「コンサルの作った戦略を、コンサルが去った後に実践できない」ということを挙げていらっしゃいます。

これは、「コンサルが出す答え」の危険性を示していると思います。どんなに質の良い、例えばシリコンバレーの企業が採用している事例に並ぶレベルのピカピカのソリューションを提供しても、相手の会社の社員がその答えについてしっかり腑に落ちていないとこれは使えない・長続きしない戦略となってしまいます。だからこそ、どんなに質の良い答えよりも、その会社の社員(特にキーパーソンたち)がしっかりと納得して、愛して、それゆえにきちんとコミットしきれる答えを出すことというのが何よりも大切だということを実感します。

 

その、相手の社員が納得できる答えを出すことを支えるために必要なのが、ロジック。

ここでいうロジックとは、「何を」「どんな順序で」「誰を巻き込んで」考えることで、みんなで答えを作っていくことができるのかというプロセスのことです。コンサルの強みって、答えを出せることじゃなくて、答えの出し方を知っていることの方が圧倒的な強みだと思うのです。だからこそ、自分が普段当たり前のように頭の中で回しているロジックを、丁寧に振り返って把握し、それを今度は相手が辿れるようにわかりやすく提示していくことでようやく価値発揮に繋がるのです。

 

ですが、それだけだと・・・

ミラクルが起きないわけです。普通のロジックに従えば、普通に他社がやっているような良事例に似たようなものが出てきたりします。そうすると、社会的にみても、あるいは社員にとっても、何らインパクトのない正統派の答えが出てきたりします。そういう答えを求めている場合は良いのですが、もっと自社にとっても社会にとってもブレイクスルーとなるソリューションを探したいと真剣に考えている会社にとっては、そういったアイデアに 相手が たどり着くための道筋を作ることがコンサルの役割になります。

それが、刺激の設計です。これは去年、とっても苦労しました。例えば、自社の人事制度を考えていくというときに、最近の人事制度の傾向や他社の事例をただただ提供するだけでは、何の刺激にもなりません。考え方の参考にはなります。一般の従業員の声を集めること、経営陣の考えを集約すること、これも必要な(ロジカルな)プロセスではありますが刺激ではありません。刺激とは、それに触れることで心や身体がゾクゾクして、通常の思考プロセスを超えて全然違うところからアイデアやインスピレーションをもたらすきっかけになるものです。どんな情報だと刺激になりうるのか、あるいは同じ情報でも、どんな触れ方をすると刺激になりうるのか・・・これはすごく難しい問いで、日々模索しています。ただ、ここにたくさんクリエイティブな答えが見つかれば見つかるほど、それは弊社にとっての(もちろん他社もそうだと思います)揺るぎないコアの強みになるのではないかと確信しています。

 

答えよりロジック、ロジックより刺激。

人を突き動かす、通常の思考経路を超えさせる「刺激」って、どのように与えられるのか?

今年もじっくり模索していきたいです。

たしかに。素直に語ることと説明することってなにが違うんだ?

今日は唸るようなフィードバックをいただいた。

私が直接というよりは、私の所属する勉強会のグループに対して、ある方から新年早々こんなメッセージをいただいたのだ。

 

「皆さんは、開陳慣れしている」と。

(自分を見せることに慣れている、という意味だそうです。)

「自分を物語るようにしながら、実は自分を説明している、そんな感じがしました。説明ですから、どうしても、難しい言葉=術語、用語の言葉が多くなりますよね。そのあたりがあったのかなと思いました。」

 

このグループでは、ビジネスの人たちと研究者たちが定期的に集まり、成人発達理論という人の変容にまつわる学びや実践の活動をしています。学問、ビジネス、様々な場面で「人の変容」や「自分の変容」に携わった経験をよく互いにシェアすることで学びを得ていったりします。何かテーマについてゆるく対話をすることもあります。

新年早々、説教のようにいきなりやってきたこのメッセージの送り主もまた、このグループの一員なのですが(笑)

 

受け取った自分としては、妙に納得してしまいました。

たしかに、自分の思ったことや考えたことを「語る」ことと、「説明しようとする」こととは、何かが違うように思います。

ぎくっとしてしまったのは、自分は後者の傾向があるなということです。こうやってブログを書きながら、今日の私は語っているのか説明しているのかどちらだろう・・・と考えると、いったいどちらなのか、際どいです。

 

それぞれの利点や欠点は、相手や文脈によるので相対的なものだとは思いますが・・・違いはなんでしょう??

少なくとも、「語り」はどのような文脈からでも発生して良いようなもの、「説明」はなんらかの文脈に必要性を迫られて生まれるもののような気がします。

そう考えると、彼の指摘にあった「説明ばかり」のグループって、響きだけでもかなり窮屈な感じですよね(笑)  その利点ってあるのかな? 自分の説明ばかりしているグループってなんなんだろう??

 

なんか愚痴っぽい口調になってきたんですが、う〜ん、なんか嫌だな〜と思ってます。

 

語ると説明するの違いってなに??

説明好きってなんで説明好きなの??

説明するから語るに変わるにはどうしたらいいの??

 

いろいろハテナ・・・!!

でも、とりあえず今日は、以上。